国家、地方社会と性別政治:戦地金門の女性の役割及びイメージの再現 江柏煒1、宋怡明(Michael Szonyi)2 摘要 1949-1992 年までの間、金門は国共の軍事対峙と世界の冷戦の衝突する前線として、国 家と地方社会の関係はその他の時期とは異なっていた。軍事政権は外部の国際情勢と地縁 政治を防衛する手はずを整えるほかに、地方社会と軍隊と整備、動員と教化を行う必要が あった。戦地経済の現代化及び民間防衛自衛隊を組織するという政策の下、女性もまた国 家によって動員され、また特殊な役割を与えられた。この他に、戦地社会では性別構成の アンバランスが極めて顕著になり、軍隊の風紀は地方の女性の安全を脅かし、さらに軍隊 と民間の感情的な揉め事が起こり、国家はこれらの課題を認識し、答えを出すことを迫ら れた。性別関係(gender relations)と性(sexuality)は戦地社会内部の整備の重要課題とな った。 本文の意図は、国家がいかに性別政治の誕生と実践を通じて戦地の女性の社会的な役割 とイメージを規範化し再現したか、また地方社会はいかにしていかにしてそれに答えたか という歴史的過程を分析することにある。まず、生産者と再生産者としての女性を探究す る。国家は彼女たちに勤労服従、敬軍愛国というイメージを与え、国家の政策の象徴とし た。さらに一歩進んで国家による女性の民間防衛体系への編入について論じる。一種の軍 事化されたイメージを創造することにより戦地の精神を再現し、また「改正風俗」の名の 下に女性の身体美学を規範化した。その他に、柔美な女性は情欲の対象の再現とされ、国 家がコントロールするレジャー娯楽の対象となり、地方経済に運用されるところとなった。 国家の女性の役割とイメージに対する各種の政策的な再現の分析を借りて、戦地社会の地 方政治の軍事化(militarization)/現代化(modernization)/性別関係(gender relations)の 三者の関係を掘り下げて理解する。 キーワード:金門(Quemoy)、冷戦(Cold War)、軍事現代化(military modernization)、性別 関係(gender relations)、性(sexuality) 前言:戦争史、地方社会及び女性 金門は、古くは浯洲、浯江、浯島、滄浯等と称したが、現在は金門本島、烈嶼、大担、 二担(今の大胆、二胆)等の群島から成っており、面積は約 152 平方キロメートル。福建 台湾国立金門技術学院閩南文化研究所副教授、米国ハーバード燕京研究所 (Harverd-Yenching Institute)訪問学者(2009-2010) 2 米国ハーバード大学東アジア言語文化学科教授(Professor,Dept.of East Asian Languages and Civilizations,Harvard University) 1 1 省のアモイ湾外、九龍江口に位置し、内に向かっては漳州、アモイに面し、外に向かって は澎湖、台湾を制することができる戦略上の要地である。 第二次世界大戦後、中国国民党と共産党の争いが激化し、米国の斡旋と調停の下に和平 会談が進められ協定が締結されたが、双方は 1946 年 7 月に内戦を勃発させた。1949 年 4 月、百万に近い共産党軍が長江を渡り南京、上海、武漢、長沙を相次いで陥落させ、さら に四川、広西等に進撃した。10 月、中華人民共和国が北京で成立を宣言し、蒋介石は国民 党を台湾に遷した。3 1949 年 10 月 24 日前夜、潮州、汕頭から移駐してきた胡璉将軍を司令官とする第十二兵 団が金門に到着し、金門の防衛を引き継いだ。その日の夜、約二万人の共産党軍が金門の 4 西北の古寧頭に上陸しようとし、 国民党軍と 56 時間もの激戦を繰り広げた。 国民党軍は内 戦以来の貴重な勝利を収め、共産党軍の「金門等を手に入れて台湾を解放する」という軍 事行動をしばらく食い止め、台湾の国民党政府に一息つかせた。 1950 年 6 月に朝鮮戦争(Korean War)が勃発し、トルーマン(Hurry Truman)大統領は台 湾海峡を「中立化」(neutralization)することを決定し、中華人民共和国が台湾を攻撃する こと及び中華民国が中国大陸を攻撃することを阻止した。未解決だった中国の内戦問題は 国際問題になり始め、さらにスケールの大きい冷戦(the Cold War)の一部となった。5 しかし、台湾海峡の中立化は金門の平和を保証するものではなく、逆に金門での戦争は 継続し、1950 年 7 月の「大胆戦役」 、1954 年の「九三戦役」 、1958 年の「八二三砲撃戦」 ( 「台湾海峡危機」とも言う) 、1960 年の「六一七砲撃戦、六一九砲撃戦」等が行われた。 反共救国軍のゲリラ部隊も金門を基地とし、三回にわたり福建省沿岸の島を突撃し、1952 年 1 月の「湄洲島突撃」 、1952 年 10 月の「南日島突撃」 、1953 年 7 月の「東山島突撃」等 が行われた。1958 年の「八二三砲撃戦」の後は、共産党軍は金門に対して「単打双不打」 (奇数日に宣伝用の印刷物を詰めた宣伝弾を打ち、偶数日には停止する)という象徴的な 武力威嚇を 1978 年 12 月 15 日の米中国交樹立まで続けた。 軍事統治下の金門は「三民主義模範県」として改造され、いわゆる「管、教、養、衛」 の四大建設の下に政治、教育、経済、軍事等の面で一種の「軍事化されたユートピア的現 代主義(militarized utopian modernism)が作り出された。61992 年 11 月 7 日になってよう やく 43 年にもわたる軍事統治と戦地政務が解除された。 伝統的な金門戦史研究は主に軍の観点やネーションの立場で戦争を記述するというもの であり、彼らの関心は敵味方双方の戦略的配置及び戦術の応用で、軍隊の交戦の詳細やそ の影響を説明し、反共意識と愛国主義を宣揚するというものだった。代表的な著作には国 防部史政処の『金門戦役』 (1957) 、国史館の『金門古寧頭舟山登歩島之戦史料初輯』 (1979) と『金門古寧頭舟山登歩島之戦史料続輯』 (1982)等がある。戦地政務時期のものには許如 中が編修した『新金門志』 (1959)があるが、軍事教育的な色彩が強く、内容は軍がいかに 3 李永熾監修、薛化元主編『台湾歴史年表―終戦編Ⅰ(1945-1965)、台北:業強出版社、 』 1990 年、78 頁。 4 金門県政府『金門県志』続修、金門:編者自印、2009 年、99-101 頁。 5 Michael Szonyi, Cold War Island: Quemoy on the Front Line, New York: Cambridge University Press, 2008, p.25. 6 Szonyi, Ibid., p.244. 2 して金門の建設を行ったかという成果を大いに賞賛するものである。英文の著作には、金 門は、米国の外交政策史、米中台関係史及び現実主義(realism)、軍事威嚇(deterrence)、戦 争瀬戸際政策(brinkmanship)の理論研究の課題において広く重視されている。7 冷戦の終結と国共の対立の緩和、戦地政務の解除、文献・檔案の公開に伴い、金門の戦 争史に関連する研究は四つの傾向が現れるようになった:第一に、通常の軍事史研究の角 度からの問いかけではあるが、海峡両岸の文献、檔案、新聞を引用、比較し、異なった政 治的立場から戦争の背後の政策決定過程を分析するようになった: 8第二に、当時金門で服 役していた士官・兵士から口述資料を収集するようになった:9第三に、通常のネーション ヒストリー、軍事史の型から脱して、人類学研究と社会史から軍事統治下の地方社会の文 化変遷に注目するようになった:10第四に、戦争遺産保護を目的とした関連研究がされるよ うになった。11 これらの異なる傾向の研究成果は、金門研究に全く新しい視野を開くものである。それ と同時に、冷戦構造と両岸関係のネットワークに組み入れられたために、20 世紀後半の金 門の地域史はグローバルヒストリー、ネーションヒストリーと相互に影響し合い、互いに 以上の各領域の重要作品は Accinelli 1996;Chen Jian 2001;Gong Li 2001;Chang 1990;Zhai 1994;Christensen 1996 等を含む。 8 例えば(中国)沈衛平原著、劉文孝補校『金門大戦:台海風雲之歴史重演』 、台北:中国 之翼、2000; (台湾)田立仁『金門之熊:国軍装甲兵金門保衛戦史』 、台北県中和市:大河 文化総経銷、2007。 9 例えば行政院国軍退除役兵輔導委員会 『古寧頭戦役参戦官兵口述歴史』 台北:編者自印、 、 2009;国防部『烽火歳月:823 戦役参戦官兵口述歴史』 、台北;編者自印、2009 等。 10 以下のものを含む。 (1)余光弘、魏捷茲(James R. Wilkerson)編『金門暑期人類学田野 工作教室論文集』 、台北:中央研究院民族学研究所、1994; (2)Michael Szonyi,Cold War Island: Quemoy on the Front Line, New York: Cambridge University Press, 2008; (3) Chi,Chang-hui, “Militarization on Quemoy and the Making of Nationalist Hegemony, 1949-1992”、 王秋桂主編『金門歴史、文化与生態国際学術研討会論文集』 、台北:財団法人施合鄭民俗文 化基金会出版、2004、523―544 頁; (4)江柏煒「誰的戦争歴史?金門戦史館的国族歴史 vs 民間社会的集体記憶」『民族曲芸』156 期、台北:施合鄭民俗文化基金会、2007、85―155 、 頁; (5)川島真「金門的軍事基地化与僑郷因素的変遷:1949 年前後的連続与断絶」 、林正 珍主編『2008 年金門学学術研討会論文集』 、金門:金門県文化局、2008、207―220 頁; (7) 周妙真『官方影像中的金門戦地婦女形象(1949-1978)、金門技術学院閩南文化研究所修 』 士論文(以下では閩南所修士論文と略す) 、2007; (8)蔡珮君『従伝統聚落到“戦闘村” : 以金門瓊林為例』 、閩南所修士論文、2008; (9)林美華『傾聴戦地的声音:金門的戦地広 播(1949-1992)、閩南所修士論文、2008; 』 (10)李瓊芳『戦地政務時期的金門学校教育』 、 閩南所修士論文、 2008; (11) 『従漁港、 李雯 軍港到商港-金門料羅村及其港口之空間変遷』 、 閩南所修士論文、2009; (12)李皓『金門戦地政務体制下的民防自衛体系』 、政治大学歴史 研究所、2006; (13)呂静怡『 「出操」的記憶与認同:金門婦女隊員的生命経験叙説(1949 -1992)、慈済大学人類発展研究所修士論文、2008。 』 11 例えば以下のものがある。 (1) 黄振良 『金門戦役史蹟』 金門:金門県文化局、 、 2003; (2) 江柏煒、 劉華嶽 「金門 「世界冷戦記念地」 :軍地地景的保存与活化芻議」 江柏煒等主編 、 『2008 金門都市計画国際研討会論文集』 、金門:金門県政府、2009、77―124 頁; (3)J.J.Zhang (張家傑) &Bo-wei Chiang (江柏煒) “‘Normandy’ or ‘Las Vegas’? Positioning ‘Kinmen’ in the 、 Post-war (Re)construction Era”、 江柏煒等主編 『2008 金門都市計画国際研討会論文集』 金門: 、 金門県政府、2009、187―220 頁。 7 3 因果をなしあっている。我々は、金門の地域史を書く意味は、伝統的な戦争史研究の中で 見落とされていた地方社会及びその住民を再現し、彼らの特殊な戦時体制下の社会組織、 日常生活、文化習俗の変遷を理解し、国際関係、国家、地方社会の三者の相互作用を分析 することにあると考えている。 軍事政権は外部の国際情勢と地政的な防衛の配置を進めなくてはならない以外に、地方 社会と軍隊の統治、動員、教化も進めなくてはなくてはならなかった。戦地経済の現代化 及び民間防衛自衛隊の組織という政策の下では、女性もまた国家に動員され、特殊な役割 を与えられてきた。 この他に、 戦地社会では性別構成のアンバランスが極めて顕著になり、 軍隊の風紀は地方の女性の安全を脅かし、さらに軍隊と民間の感情的な揉め事が起こり、 国家はこれらの課題を認識し、答えを出すことを迫られた。性別関係(gender relations) と性(sexuality)は戦地社会内部の整備の重要課題となった。 本文の意図は、国家がいかに性別政治の誕生と実践を通じて戦地の女性の社会的な役割 とイメージを規範化し再現した、また地方社会はいかにしていかにしてそれに答えたかと いう歴史的過程を分析することにある。 まず、 生産者と再生産者としての女性を探究する。 国家は彼女たちに勤労服従、敬軍愛国というイメージを与え、国家の政策の象徴とした。 さらに一歩進んで国家による女性の民間防衛体系への編入について論じる。一種の軍事化 されたイメージを創造することにより戦地の精神を再現し、また「改正風俗」の名の下に 女性の身体美学を規範化した。その他に、前の二つと相反して、柔美な女性は情欲の対象 の再現とされ、国家がコントロールするレジャー娯楽の対象となり、地方経済に運用され るところとなった。最後に、これらの女性の役割とイメージの再現の分析を通じて、戦地 社会の地方政治政策における軍事化(militarization)/現代化(modernization)/性別関係 (gender relations)の三者の関係を理解する。 生 産 と 再 生 産 の 役 割 に お け る 模 範 女 性 ( women as producers and reproducers) 1.家事労働から増産報国へ:戦地経済政策下の労働女性 金門は沿海地方であり、早い時期には砂嵐の害をひどく受け、また土地がやせており、 水利が豊かではないために、島民の多くは塩作り、近海漁業、雑穀の畑作を主要産業とし、 生産物をよその土地から供給される白米と交換してきた。近代になり、大量の青年が南方 に渡って生計を立てるようになり、地方経済は海外華僑の送金に高度に依存するようにな り、生産環境は相当に苦しいものであった。 1949 年以降金門は戦地になり、一方で華僑送金は以前には及ばなくなり、地方経済は大 きな影響を受け、もう一方で大量の軍人がやって来て、民生物資の供給は緊急の問題にな った。生産量を向上させるため、軍は専門の機関を設立し、農業、林業、漁業、畜産業を 積極的に改良し、自給自足の目標を達成しようとした。12戦地民生工業の推進にも効果が現 れ、金門高粱酒はその中で最も成功した産業になり、金門の農業の発展を導いた。 「一斤の 例えば 1951 年には「金門県農林試験所」 (金門県農業試験所の前身)が設立され、1956 年には「金門県林務所」が成立し、1960 年には「金門県牧馬場」 (金門県畜産試験所の前身) が成立し、1968 年には金門県農業試験所の管轄下に「水産站」 (金門県水産試験所の前進) が設立された。 12 4 13 高粱 (及び大麦、 小麦) を一斤の白米と交換する」 という政策のもと、 政府は農民が高粱、 大麦、小麦及びその他の食糧以外の経済作物の栽培を奨励し、これらの穀物を公営の酒造 工場に供給し酒造りの原料とし、財政の自主性をうち立てた。また、金門のもう一つの軽 工業である陶器工場(1963 年設立)も高粱酒の容器を製造するために設立されたものであ る。 金門の農業、漁業家庭では、既婚女性の多くは家事労働と家計生産の両方に考慮しなく てはならなかった。一人の女性の日常生活はほとんどが同じモデルである。三食の料理を し、舅、姑、夫に仕え、子供を育て、洗濯、掃除等の家事労働をし、それが終わると畑で 手伝いをするか海岸で牡蠣や海草を採ったり、また豚、牛、鶏を飼わなくてはならない時 もあり、余った時間には衣服を縫ったりしていた。一つの家庭の運営と結び付いた重要な 役割であるが、当たり前の「天職」と見なされていた。 しかし、ひとたび国家が政治的な需要を持つと、勤勉な女性の労働のイメージは戦地精 神に結び付けられるようになり、農漁業技術の改良後は豊作の光景は戦地社会の豊かなイ メージを伝達することができ、女性のイメージは一種の隠喩効果を備えた主題となった。 軍が撮影した 1950 年の海岸の写真は、 烈日の下で男性一人と女性一人が懸命に魚網を補修 しており、戦地の生活の「苦しみを恐れず、困難を恐れない」という意志の力を伝えてい る。 (図1)1969 年の『金門日報』は烈嶼郷のトウモロコシの豊作の光景を載せた。四人の 人物が椅子に座っており、傍らはすべて畑からとれたトウモロコシであり、一人の年長の 女性と二人の未成年の女の子がトウモロコシの皮むき、分類、実の取り外しに精を出して おり、男の子は好奇心を以って頭を上げてレンズを見つめている。 (図2)彼女らはみな沈 黙する労働者であり、女性特有の忍耐力で細々して面白みのない仕事を繰り返し、また家 の子供の面倒を見るという職責を果たしていた。写真が再現している時代の意義は、国家 の農漁業政策の成功で彼女たちは衣食に足り、また彼女たちも国家の期待通りに、自分の 身をわきまえ、勤労、服従し、増産して国に報いるということであった。 図1(左) :1950 年代の魚網の補修(金門県政府、 「胡璉将軍珍蔵文物、写真類」 、編集番号 E068、未出版) 図2(右) :烈嶼郷トウモロコシ豊作の農作業の光景( 『金門日報』 、1969 年 7 月 4 日第二版) 国家は意識的に伝統的な経済活動と国家の大事件の連結を再現しようとしただけでなく、 地方社会の異なった経済の変遷を宣伝しようと試み、そこには女性の経済的役割の転換も 含まれていた。例を挙げると、1950 年代後期には国家が女性に料理、裁縫等の職業訓練を 13 金門県政府『金門県志』 、金門:編者自印、1992、1169 頁。 5 提供し、彼女たちが職場に入ることを奨励した。14軍は貧困家庭の女性のために「家事講習 班」を開講し、彼女たちにミシンの操作を学習させた。 (図3)また民生工業の人材需要の ために、金門高粱酒工場などでは、女性労働者を雇って低技術の仕事を担当させた。写真 は二列の女性が厨房の隅に座り、男性技術者が機械を操作する画面の後ろに隠れて、酒瓶 の中に不純物がないか目で確認し、包装を行っている。 (図4)1977 年西園塩場の製塩加工 工場が開設され、食用精製塩を生産し軍と民間に供給した。製塩工場は数名の地元女性を 臨時労働者として雇用し、精製塩の包装作業に投入した。 (図5)女性は工業生産ライン上 の一環となり、勤労で細心であり、増産によって国に報いるという時代の雰囲気を再現し た。しかし農漁業生産であれ工業生産であれ、当局のレンズが凝視している労働女性は決 して主体性を持っているものではなく、さらに真の社会的脈絡(social context)の外に抜き出 されていた。彼女たちは国家が「戦地政務実験区」及び「三民主義模範県」の政策の成功 を宣伝する一種の符号と象徴となった。 図3(左)「貧民自助縫紉班」の労働女性( : 『正気中華日報』 、1963 年 5 月 3 日第四版) 図4(中) :金門酒工場の生産ライン( 『正気中華日報』 、1969 年 11 月 27 日第二版) 図5(右) :精製塩加工工場の包装の女性労働者( 『金門日報』 、1978 年 1 月 6 日第二版) この外に、国家は女性の細心で温和な特質をよく利用し政策執行過程で直面する可能性 のある衝突を処理した。高粱や大麦、小麦の収穫時期には、酒工場は人と車両を派遣し各 郷鎮を巡回して収集、測量、記録を行い、さらに農民組合に台帳を渡して白米と交換する。 しかし、女性の経済機会は実際はある種の小さな範囲、つまり当局(あるいは男性)が認 定し、想像する適当な職場の役割に限定されていた。1972 年 6 月と 7 月の『正気中華日報』 にそれぞれ掲載された二枚の写真は女性労働者が「乾湿度計測器」で民衆が交換に来た大 麦小麦を検査する様子を記録している。彼女たちは微笑を浮かべ、親切かつ専門的に仕事 を行い、その中の一枚は「小麦の花」と命名されている。 (図6、7)実際はこのような仕 事は農民の権益に関係しており、いつも勘定が細かく、容易に争いが起き、女性は国家と 地方社会の仲介者となり、性別の特性による優勢を発揮し、国家が与えた役割を忠実に果 たした。 14 作者不明「戦地計画、女子商店」『正気中華日報』 、 、1980 年 5 月 20 日第二版。 6 図6(左)「小麦の花」が穀物の乾湿度を検査する( : 『正気中華日報』 、1972 年 6 月 15 日第 二版) 図7(右) :金門酒工場の女性技術員が仕事を行う( 『正気中華日報』 、1972 年 7 月 10 日第 二版) 2“家”から“国”への責任: 「模範的女性、模範的母親」の選抜と「軍服縫製」運動 しかし、女性の就業の提唱は女性の家事の役割の再評価にはならず、反対に、これらの “あたりまえ”と思われ続けた功能は、家庭福祉のみにとどまらないものとされ、さらに 国家目標への貢献とされた。言い換えれば、軍事の現代化は家事労働の政治化の過程に関 わっていた。 1950 年代中期から、戦地女性の模範イメージを作り出すために、金門は国際女性デーや 母の日等の国が定めたプログラムで「模範的女性、模範的母親」の選抜を行い一例とした。 選抜過程は下から上にという推挙方式を採り、まず村の役場で名簿を作成し郷鎮の役場に 送り、さらに軍に隷属する県政府に送り決定する。入選者は軍によって県政府で表彰され 賞状が贈られ、また個人の事跡が『正気中華報』と『金門日報』に掲載された。 模範的女性であれ模範的母親であれ、漢人の伝統社会の女性の「夫を支え子供を教え、 よく家事をする」ということの再生産(reproduction)の領域に対する期待の外、彼女たち の生産事業、公益事業における態度及び「敬軍、愛国」という政治的忠誠度を検査するも のである。さらに言えば、国家は女性が職場に入り、困難を克服して生産し、 「一族と親睦 し、 問題を解決し紛争を調停する」 という男性の地方有力者の役割を演じることを奨励し、 また愛国主義的な情操を展開し、女性を家庭での役割から引き出して、女性を男性と同様 に公共の事務に参与させることを試みた。しかし詳細に研究すると、この過程は現代的な 意味をもった女性解放運動ではなく、反対に女性は更に重く、更に不平等な圧力の中に陥 れられた。例を挙げるならば、模範的母親の基本的な資格は三人以上の子女がいることで あり、多産を奨励する政策態度を反映していた。 「子女を教え導き功績をあげた者、功績の 著しい者」というのは子女が軍隊に入ることを奨励するものである。さらに「政府が推進 する政令に協力し、本県の新村建設及び環境衛生整理を実践する」ということに適合しな くてはならない。これらはみな国家が戦地社会の良妻賢母に対する新しい要求を説明する ものである。家庭を管理し、さらに国家に服務しなくてはならず、さらに進んで「良妻賢 母で救国保種で良好な公民」という役割をこなすということであり、 “家”から“国家”と いう重大な責任を背負うことになった。 (表1) 表1:金門の模範的女性、模範的母親の選抜資格と基準 基本資格 二十歳以上の女性で 模範的女性 (既婚、未婚は問わ ず) 、行為が正しく悪 い嗜好のない者 選抜基準 1.国を愛し具体的な事実を表現している者。 2.軍を敬う模範で郷土で表彰することができる者。 3.公務員、教師で成績優秀で管理職を経て奨励すべ き事例がある者。 7 4.公益に熱心で郷土で尊敬される者。 5.苦労を厭わず労働し、生産事業に努力し成績優秀 な者。 6.夫を支え子供を教え、よく家事を行う者。 1.若くして夫を失い、子供を育て上げ、近所で賞賛 される者。 2.夫に仕え子供を教え、よく家事を行い、一族を親 睦させ、近所の模範となる者。 本県に六カ月以上居 住し、五十歳以上で、 模範的母親 子女が三人おり品徳 に優れ、 身体が健康な 者 3.苦労を厭わず労働し、生産に励み、また近所の生 産建設に協力し、生活水準を向上させた者。 4.問題を解決し紛争を調停し、善いことのために忠 言し、子女が功績をあげるように教え導き、顕著 な業績をあげた者。 5.国を愛し軍を敬い具体的な業績があり、敬軍の模 範となったことのある者。 6. 政府が推進する政令に協力し、本県の新村建設及 び環境衛生整理を実践する者。 (資料ソース:1957、1961 年の『正気中華日報』から整理) これらの模範的な女性の典型は、まさに蒋介石夫人宋美齢の 1954 年 3 月 8 日の国際女性 デーの慶祝大会での言葉の、 “家”と“国”の両方の責任に対する女性のイメージのモデル に呼応している。 全国の姉妹のみなさん!我々の民族の偉大な精神、さらに我々の高尚な倫理道 徳、この倫理道徳は実に我々中華民族五千年の歴史の結晶であります。そのため 我々中国は以前の女性の崇高な観念は良妻賢母でした。しかし我々は今日では反 共反ソ反攻復国の時代です。我々はさらにこの倫理道徳概念、良妻賢母の家族愛 を民族愛に拡張し、さらにこの良妻賢母の家庭愛を国家への愛に拡張しなくては なりません。 つまり我々女性は母は岳飛の母のように、 妻は韓世忠の妻のように、 子供に民族に孝を尽くすように教え、夫に国家に忠を尽くすように勧める、それ こそ我々現代女性が追及する模範と観念です……。 今日の女性は時代に要求により二重の責任を負わなくてはなりません。家庭を 守るとともに国家に服務する。このために自己を充実させ、自己を敬愛し、現代 女性となり、 「良妻賢母で救国保種で良好な公民」であるという目的を達成しなく てはなりません。15 世界の他の社会からすると、女性の現代化の過程で家庭の内外の“二重の責任”を担う というのは容易に理解されることだろう。しかし軍事の現代化の必要のために、戦地のこ の種の二重の責任は女性が国のために奮闘する特殊な貢献と見なされた。 「軍服縫製」運動 15 宋美齢「婦女節慶祝大会致詞---中華民国四十三年三月八日講」 、王亜権総編『蒋夫人言論 集』に収録、台北:中華婦女反共聯合会、1977、803-804 頁。 8 は“良妻賢母”イメージの具体的な政治実践だった。実際に、この運動の発端は宋美齢が 指導する「中華婦女反共抗俄聯合会」 (以下婦聯会と略す)の活動の一つであり、その目的 は「女性の力を団結させ、反共反ソで勝利を収める」というものだった。1950 年 4 月 17 日 に婦聯会は台北で正式に成立し、影響力を拡大するために、二ヵ月に満たない時間で分会 三十四、支会五十四、工作隊四隊を設立した。県・市政府に属するものは十六、軍事機関 に属するものは十一、行政機関に属するものは五つ、学校に属するものは二つだった。戦 地である金門では福建分会(1950 年 5 月 21 日設立) 、金門防衛司令部分会(1950 年 6 月 9 日設立) 、怒潮分会16(後に金門防衛司令部分会に編入)と金門防衛司令部分会に所属する 支会三つが設立された。17金門は首都の台北を除くと、分会と支会が最も多い県市であり、 戦地社会の動員が台湾本島と比べてさらに徹底していたことがはっきりしており、また金 門の各分会主任委員は当時の金門防衛部司令胡璉将軍の夫人胡曽広瑜が担当していた。 婦聯会の仕事の重点は、主に軍人を慰労し、遺族を扶養し、軍、公務員、教員の家族な ど特定の社会集団を世話することであり、また前線の作戦が必要とするものに適合させる ことであった。設立大会では各界が20条の提案を決議し、そのうち11条以上は仕事に関す るものであり、以下の内容を含んでいた。(1)軍服縫製工場を設立し、傷兵慰問隊及び 出征遺族訪問隊等が反共反ソに有利なようにすることを求める。(2)孤児院を広く設立 する。(3)本会に生産小組一つを設立し、常に軍、公務員、教員の家族を指導して手工 業生産に従事させ、外貨を獲得し生活を維持する。(4)各地に散在する生活能力のない 軍人家族を東部の花蓮及び台東の二県に移住開墾させ、生活を維持し、士気を向上させ後 方を安定させる。(5)士気を奮い立たせ、将兵の子女の教育に対する憂慮を軽減するた め、入学費用の免除と出征兵士家族及び遺族のための学校を開設することを求める。(6) 婦女界を動員して傷痍軍人を慰労する。(7)基金を募集して、生産事業を起こし、工場 を設立する。(8)各階層の女性同胞を動員して一人靴一足運動を起こして前方に送る運 動をするように求める。(9)本会が被服を工場を設立し、なるべく軍人家族に仕事を担 当させるように求める。(10)縫製工場を設立し、各機関、学校に手紙を送り制服の縫製 を請け負い、失業した軍人家族を救済する。(11)食糧の増産を積極的に行い、前方の作 戦に適合させる。18 1950年4月27日、宋美齢は自ら縫製して軍を慰問した。このニュースはメディアで広く報 道され、漫画にも描かれ、字の読めない女性にも総統夫人でさえも模範となり、労働して 国に報いるという高尚な品徳を示しているということを感じさせた。漫画の中の宋美齢の 表情は穏やかで婉曲で、集中し熟練した様子でミシンを操作し、良妻賢母のイメージを伝 怒潮学校は民国三十八年(1949 年)に胡璉 12 兵団第二編練司令部が江西に設立した幹 部訓練班であり、知識青年の従軍を募集した。学校は部隊が江西会昌、瑞金から広東庵埠、 汕頭等に移ったのに従って移った。民国三十八年末に台湾に移り、初め新竹新埔に落ち着 き、翌年金門水頭に移った。 (董群廉等『金門戒厳次期的民防組訓与動員訪談録』 、台北: 国史館、2003、362―363。)怒潮学校の卒業生の多くは各村の指導員となり、民間防衛組織 の訓練を指揮し、金門の女性と結婚した者も相当数いたので怒潮分会が設立された。 17 洪国智『中華婦女反共抗俄か聯合会在台慰労工作之研究(1950-1958)、中央大学歴史研 』 究所修士論文、2003、53-57 頁。また、作者不明「代製征衣万件、婦女界発動中」『正気中 、 華日報』 、1950 年 5 月 19 日第四版。 18 作者不明「婦女反共抗俄会昨已円満閉幕」『中央日報』 、 、1950 年 4 月 20 日第一版。 16 9 えている。(図8)1950年5月から、金門では猛烈な勢いで軍服縫製と軍人のために洗濯す 19 る運動が展開され、 軍の新聞は民間が婦聯会の政策に熱心に呼応したという光景 (図9) 、 及び軍人が慰問を受けて感動し、士気が上がったという印象を作り出した。20疑問の余地も ないことだが、「軍服縫製」運動の政治効果は、「敬軍愛国」を宣伝するのみならず、平 凡な家庭労働が、無意識の感化という意識形態を通じて二者――動員される女性と恩恵を 受ける軍人を教化しているのである。宋美齢は良妻賢母の模範的な原型(prototype)を作り 出し、“国家の母親”になり、前線に出兵する将兵を気にかけた。この種の“天下の模範とな るべき母親”というイメージの力は、民間の女性はみな立ち上がるべきであり、軍人は忠 義を尽くして国に報いなくてはならないということを暗示しており、忠孝という倫理に符 合する道徳政治観を打ち立て、国民政府統治の正当性を強化した。 しかし金門の女性にとっては、これらは間違いなく彼女たちの負担の増加になった。彼 女たちは家で夫や子供の世話をし、家事労働を負担する以外に、現在では国家の政治運動 に巻き込まれて別の男性の一群――前線を防衛する軍人の世話をして、国家に対する忠誠 を示さなくてはならなくなった。戦地の“模範的女性”の意識形態は、一種の父権体制の 下での新しい圧迫であり、決して男女平等という現代的意味を持ったものではなかった。 このため、金門の女性が直面したのは普通の“二重の責任”ではなく、家族、軍人、国家 に服務するという“三重の責任”であった。後述するように、女性たちは国家によって直 接的に動員された。 図8(左) :蒋夫人が自ら衣服を縫製し軍人を慰労するという漫画(梁中銘、 「半週新聞人 物―蒋夫人親製衣褲労軍」『中央日報』 、 、1950年5月1日第九版) 図9(右) :金山民防大隊の女性が縫製して軍を慰問する( 『正気中華日報』1963年6月25日 第四版) 軍事動員と身体的な教化を受けた戦地の女(women as mobilized 『正気中華日報』の報道には例えば次のようなものがある。 (1)作者不明「金門婦女代 表は 21 日に中華婦女反共抗俄聨合会福建分会設立大会を開催することを決定、また女性を 動員して軍隊のために軍服を一万着を縫製する」 1950 年 5 月 19 日第四版 (2) 作者不明 「金 門防衛部婦聯会の軍服縫製の成績は第一位」1950 年 7 月 23 日第四版(3)作者不明「湖前 郷の女性が負傷兵のために洗濯」 、1953 年 8 月 24 日第四版(4)作者不明「戦士が国のた めに苦労しているのに感謝し、浦辺の女性が衣服を補修」1957 年 4 月 1 日第四版等。 20 1950 年 7 月 5 日『中央日報』第七版が方剛という作者が書いた「当我穿在身上」という 詩を掲載しているのがその一例である。詩の中では婦聯会の暖かい行動を賞賛し、戦場で 敵を消滅させて恩情に報いるとしている。 10 19 citizens and disciplined body) 1. 教育班から民間防衛自衛隊へ:女性の軍事動員 1950 年代初め、 「全民武装、全民動員、全民戦闘」の呼びかけの下、金門の住民は性別、 年齢、職業などに応じて防衛戦力に組み入れられた。民間防衛体系の実施の前に、女性の 動員は既に始まっており、まず女性教育班という名義で、識字教育と救護訓練を主とした 課程が行われていた。1951 年 3 月 5 日の『正気中華日報』には、 「金門の行政機関は 女性教育を普及させ、反共反ソの意識をはっきりさせ、軍隊にあわせて戦時の任務を担当 させており、最近は区を単位として各区の中心の学校の中に婦女教育班を設立することを 決定した……三ヵ月を一期とし、十八歳から四十五歳の家庭の女性を一律に参加させ、… …その主な課目は識字教育と救護訓練の二種類である。 21理由なく欠席した者は罰金を科 」 され、また「期間中は、一月ごとに一度試験をされ」 、訓練は厳格で、特殊な事情がないか ぎり、18 から 45 歳の女性は全員参加しなくてはならなかった。22 基本的に、教育訓練班の目的は軍事動員のためであり、教育啓蒙という現代的な意義の ためのものではなかった。最初に婦女隊を組織した時に、 「言葉が通じず、風俗が異なり、 困難が非常に多かった」23ために、識字教育をして動員が十分にできないという問題を克服 しようとした。救護訓練は女性が戦争で負傷兵や怪我人を救護することに協力できるよう に期待された。教育班では反共の読み物を読み、女性に政治意識を教え込むようになって いた。 1953 年から、軍は金門県民防指揮所を設立し、住民の軍事編成を拡大し、治安の維持に 協力させ、軍事作戦を支援させた。1957 年 12 月、国防部は『金馬地区各県民防総隊編組辦 法』を公布し、翌年 4 月には「民防総隊」を編成した。1967 年 5 月には、 「民防指揮部」に 改称し、指揮官は依然として県長が兼任した。1971 年 11 月、国防部は再び「民防指揮部」 を「民防総隊」に改めた。1973 年、台湾省の各県市の民防衛機構は整理統合され、金門と 馬祖の民防隊だけが残され、金門では「金門県民衆自衛総隊」に改められ、部隊の管轄に 直属した。 24郷鎮の役場には自衛大隊が設立され、行政村には自衛中隊が設立され、 “戦闘 村”25には自衛区隊が設立され、階層ははっきりとしていた。毎年8日の訓練と、季節ごと 21 作者不明「役場は女性教育を普及させ、婦女教育班を設立する。十八歳以上四十五歳以 下の女性は一律に参加すること」『正気中華日報』 、 、1951 年 3 月 5 日第四版。 22 『婦女教育班入学規則』第一条「教育班の受講生は以下の場合参加を免除される。 (一) 十八ヵ月未満の子供がいる者。 (二)家庭の生計を一人で支えている者(家の中で女性一人 が生産をしている場合に限る)(三)妊娠三ヵ月の者。 。 (四)病気や障害があって参加でき ない者。 (作者不明「役場は実施を徹底し、女性教育を普及させ、入学規則を制定して実 」 施させることを決定」 『正気中華日報』1951 年 4 月 14 日第四版。 ) 23 作者不明「烈嶼の新しい風景、女性の知的好奇心が盛ん」 『正気中華日報』 、 、1951 年 1 月 27 日第四版。 24 金門県政府、前掲書、1265-1268 頁。 25 1968 年 9 月、金門全県の 155 の自然村で戦術の必要のために、人口、地形面積、指揮掌 握等の状況を調べ、73 の戦闘村に改編し、 「軍、政、警、民」を一体化した。また、1976 年から金門、賢厝、頂堡、安歧、昔果山、后湖、瓊林、成功、沙美、斗門、陽翟、内洋の 12 の重要な戦闘村を選んで塹壕を建設した。 (金門県政府、前掲書、1992、1268 頁。 ) 11 の訓練 16 時間及び必要な専門の訓練が行われ、すべての訓練、演習は農閑期や漁業閑期を 利用して行われ、生産に影響を及ぼさないようにするというのが原則だった。26 民間防衛は普遍的な責任ではあるが、女性の地位はやはり特別なものだった。伝統的な 観点では女性の生理的性別が女性の公共的な役割を作り出す。しかし実際はそうではなく、 この性別による役割分担は、国家による“自然化”の過程であり、軍事統治の過程におけ る想像と創造であった。これらの具体的な軍事編成には以下のものがある。1958 年婦女隊 は 18 から 35 歳の身体健康な女性によって組織され、政令及び規約、防諜、慰問及び負傷 者の救護、老人や体の弱い者の扶助、児童のしつけ、軍事勤務の補助等の仕事を宣伝した。 予備隊は 16、17 歳の若い女性によって組織され、見張り、検査、防諜、通信、政令及び規 約の宣伝等の任務に協力した。1967 年の民防指揮部の組織では、17 から 35 歳の女性は婦 女分隊に編入され、救護処理と政治戦、心理戦の宣伝の呼びかけの任務を担当した。12 か ら 17 歳と 36 から 55 歳の女性は予備分隊を編成し、人員の避難、検査、防諜、通信、政令 の宣伝等の任務に協力した。1968 年になると戦闘村が設立され、村の 16 歳から 35 歳の未 婚の女性住民は守備隊を編成し、村の自衛戦闘と反降下作戦、軍事勤労支援、捕虜の監視 等の任務を担当した。18 から 45 歳の既婚女性は勤務隊に編入され、戦闘中の心理戦による 宣伝呼びかけ、文章宣伝、負傷者救護等の任務を担当した。12 から 15 歳の若い女性は幼獅 隊に編入され、戦闘中の検査、巡回、交通管制、伝令等の任務を担当した。その他の老人 や身体の弱い者や子供は、疎散隊に編入され、戦闘が発生したときに人々を引導して避難 させた。27また反共意識の植え付け、機密保持、防諜、指導者への忠誠等の政治教育を行っ た。 戦地政務時期には、メディアでは闘志を高揚させ、整然画一とし、規律が厳格な女性の イメージが再現された。彼女たちの大部分の訓練課程は男性の自衛隊員と違いはなく、国 家の祭典や外賓の訪問では、女性自衛隊は銃器訓練や行進儀式を披露した。1972 年 9 月 3 日の軍人節では、男女の自衛隊は初めて台湾に赴き国軍運動大会の銃を持った行進に参加 し、10 月には再び建国記念の行進に参加した。翌年の軍人節では、300 人の女性自衛隊員 が単独で銃を担って行進した。1974 から 1978 年の間に、建国記念の閲兵儀式には、毎年 256-400 人の男女の隊員が派遣された。彼らは厳格な訓練をつんで、台湾に赴いて建国記 念式典に参加し、 「陣容は壮大で、士気は高揚したため、各級の長官及び中外の来賓の賞賛 を深く得た。 28女性自衛隊員の選抜は細心の注意が払われ、外見が端正で、身長 158 セン 」 チ以上の者が選ばれた。当時、全国のテレビ番組の放送を通じて、金門の女性自衛隊員の 軍事化されたイメージは、 広く国民に知られており、 “戦地金門の精神” の再現のみならず、 強大な“自由中国”の象徴であった。毎年の女性自衛隊の建国記念行進の実演は、一種の 愛国主義を促進する文化儀式になった。 (図 10-19) 26 27 28 金門縣政府, 《金門縣志》 ,頁 852。 金門縣政府, 《金門縣志》 ,頁 1265-1268。 金門縣政府, 《金門縣志》 ,頁 1267。 12 図 10(左) :幼稚園教師の射撃訓練( 『正気中華日報』 、1965 年 7 月 4 日第二版) 図 11(右) :金城鎮の民防婦女中隊( 『正気中華日報』 、1963 年 10 月 10 日第四版) 図 12(左) :1970 年代の心理戦の宣伝呼びかけ訓練(金門県政府「胡蓮将軍珍蔵文物、写 真類」 、編集番号 E075、未出版) 図 13(右) :1980 年代初期の銃器訓練(翁沂杰提供) 図 14(左) :救護課程の訓練( 『正気中華日報』 、1964 年 3 月 28 日第四版) 図 15(右) :烈嶼駐留軍が婦女隊に救護技術を指導する( 『正気中華日報』 、1968 年 9 月 5 日第二版) 図 16(左) :婦女隊の歩調練習( 『金門日報』 、1969 年 3 月 14 日第二版) 図 17(右) :金城の民防隊員( 『正気中華日報』 、1968 年 12 月 2 日第二版) 13 図 18(左) :自衛隊が建国記念行進に参加する( 『正気中華日報』 、1972 年 10 月 16 日第二 版) 図 19(右) :金門の女性自衛遺体が九三軍人節の行進に参加する( 『正気中華日報』 、1973 年 9 月 11 日第二版) 2. 動員された女性:抵抗、離散、順応、同一視の経験 しかし、女性の軍事動員は、少なくても二つの当局の論理と政策の矛盾が存在した。 第一に、理論的には、民防隊は自発的な民兵であり、国家が任務を与えて派遣するもで はない。当時、国家は“国難に共に立ち向かう”ということを政治宣伝しており、全国民 の民防隊への支持を作り出そうとした。しかし実際は金門の民間防衛訓練は強迫的な義務 であり、女性は心身が任務に堪えない、在学中の学生である、妊娠している、乳児の世話 をしなければならないなどの特殊な事情がなければ逃れることができなかった。29さらにひ どいのは、一種の強迫的な義務であるのに、軍は住民が訓練を受ける過程での基本的な権 利の保障を回避し、彼らに自分で駐屯地に行くように要求し、昼食も提供せず、自費で制 服を作らせた。これらの地位、権利が正規の軍人に及ばない差別的な待遇を受けた民防隊 員は自らを嘲笑して「805 部隊」と呼んだ。30 第二に、国家は「全民武装、全民動員、全民戦闘」を呼びかけているが、実際は依然と して“自然化”された性別分類意識(a naturalized classification of gender)あり、女性の軍事 的な任務は男性とは同じではない。また、年齢以外に、既婚、未婚の違いは軍事編成の分 類となり、任務は大いに異なっていた。31もちろん、これらの分類は地方社会の反発を避け 29 以下の状況の者は編入を免除された「 (1)身体に疾患があり確実に任務に耐えられない 者(2)高級中学に在籍する学生(3)精神疾患或いは精神璜弱で公の医療機関の証明が ある者(4)妊娠二ヵ月以上で医師の証明がある者(5)配偶者が軍隊に志願しあるいは、 徴兵され服役した女性で、家事をする必要がある者(6)家族が病気で一人で行動できな いため、世話をする必要がある者(7)5 歳以下の子供がいて世話をしなければならない女 性(8)7 歳以下の女性が三人以上いて、世話をしなくてはならない女性」(国立金門技術 。 学院研究小組編『金門戦地政務的法制与実践』金門:金門県政府、2004、287-288 頁。) 30 1958 年頃に民防訓練を受けた呂旺曾は「民防隊員は軍服を着てはいるが、結局は民防隊 であり、肩章もなければ、番号もなく、人にどこの部隊かと尋ねられてもなんと答えてい いかわからなかった。後に(制服の制作費が)八十元五角だったのを思い出し、とてもも ったいなく感じ、 『八〇五部隊』と自称するようになった。 」と述べている。 (林馬騰『烈嶼 的烽火歳月』金門:金門県立文化中心、2003、66-67 頁。) 31 戦闘村の女性を例にすると、18-45 歳の既婚女性は勤務隊に編入され、主に心理戦呼び かけ放送、文章宣伝、負傷者救護等の後勤任務を担当した。未婚ならば 16 歳以上は必ず守 14 るためのものであるが、結局のところ既婚女性は家事労働での役割がすでに大きく、もし 同じような軍事任務を与えたら、必ず家庭の日常生活の運営に影響をきたしてしまう。こ のため、 “性別を分けない”という全民動員の理論はただのスローガンに過ぎず、軍事化の 過程で国家は性別分類の操作に介入した。 これらの理論と政策上の矛盾は、女性に軍事動員に抵抗する機会と空間を提供した。呂 静怡へのインタビューによると、1970 年代以前、金門の女性は妊娠六ヵ月になってからよ うやく「訓練」の免除を申請することができた。1970 年代からは婚姻状態にあれば「訓練」 に参加しなくてもよくなった。32そのため、早く結婚してなるべく早く妊娠することが女性 が軍事訓練から逃れる方法の一つだった。 乳児を養子にするのも訓練から逃れる方法の一つだった。規定では、5 歳以下あるいは 7 歳以下の子供 3 人を育てている母親は編入されなくてもすんだ。そのため、養子の名目で 親戚友人に乳児を借りてきて戸籍に登録し、訓練免除の条件に合わせるという状況が生ま れた。そのほかに、もし台湾に行って仕事をする申請をして許可を得れば、軍事訓練を免 れることができた。当時、民間防衛訓練は多くが旧正月前に行われたため、台湾で仕事を する女性は家に帰って年越しをすることができなかった。そでなければ民間防衛の義務を 負わなくてはならなかったからだ。家族が病気になったり死亡してようやく、彼女たちは 故郷に帰って世話をしたり葬儀に駆けつけることができた。平時は、女性は月経が来たこ とを理由に、数日間一時的に軍事過程から逃れることができた。戦地社会の軍事動員制度 は一部の女性の婚姻、妊娠等の生命周期に影響を与え、あるいは家族編成を変え、また同 じ国にいるのに家があっても帰れないという特殊な離散経験をもたらした。さらに重要な のは、性別政治は国家が用いるものだけではなく、反対に女性が国家の政策に抵抗する策 略手段になった。 軍事訓練を受けた女性は、往々にして家事労働と衝突するところになり、彼女たちの負 担を増大させた。訓練期間中、彼女たちは睡眠時間を短縮し、朝四時、五時に起きて急い で家事を行い、或いは農作業や海での牡蠣採り、家畜の飼育を行い、八時の集合時間に駆 けつけた。女性の中には体力が十分ではなく、或いは家事を気にかけて、訓練過程で成績 がよくなく叱責されたり、 罰金を科されたりする者もおり、 心身の圧力は小さくなかった。 このような状況で、彼女たちは自己順応して圧力を軽減することを学ぶしかなかった。例 えば初期の教官の多くは中国大陸の各省からやってきており、訓練を受ける者は往々にし て彼らの話す方言交じりの国語(普通話)聞き取ることができなかったので、もし動作を 誤った場合は、逃れる口実になった。筆記試験の時には、字のわからない女性はカンニン グするしかなく、別人の回答を写し、みんなも互いに協力した。女性の中には、演習は模 擬に過ぎず、戦争になったらこれらの基本的な防衛訓練は全く役には立たないのだから、 普段の訓練は適当にやって、まじめにやる必要はないと思う者もいた。これらは女性が家 事労働と民間防衛訓練の間で、直面していた役割、時間配分、体力負担等の面での板ばさ み状態(dilemma)を反映しており、基層庶民が採った「上に政策あれば、下に対策あり」 備隊に入り、村の自衛戦闘、反降下作戦、軍事勤務支援、捕虜監視等の軍事任務を担当し た。両者の差は非常に大きかった。 32 呂静怡、前掲文、90-91 頁。 15 という社会順応の集団心理も現している。 この外に、金門防衛司令部と民防自衛隊総隊にとっては、1974 年から男女の隊員を建国 記念閲兵式に派遣するというのは重大なことだった。当時、婦女隊は毎年 8 月初めに金湖 の「第二士校」に集まり、士官と同様の厳格な集中訓練を受け、その過程で体力の及ばな い者や成績の及ばない者を淘汰した。訓練が終わると、10 月初めに軍用運輸艦で高雄に行 き、さらに北上して台北に行って閲兵に参加した。入選者にとっては、この過程は非常に 苦しく、多かれ少なかれ抵抗する心理が生まれる。しかし、特殊な社会集団として特殊な 文化儀式に参加し、特殊な権益を教授することで、入選者は往々にして排斥、抵抗の心理 から一種の光栄感、同一感を持つようになり、女性の中には数年間連続で自主的に参加す る者もいた。 これらの同一視の形成は多くの結果によるものである。 まず、 閲兵に選ばれた婦女隊は、 外形的には一定の基準があった。厳格な訓練を終えられたことは、絶対に個人にとって肯 定であり栄誉であった。しかも金門を代表して全国の注目が集まる舞台で演じることは、 また国家が作る愛国的、規律的戦地精神の再現であった。この外に、建国記念閲兵の集中 訓練は一般の民防婦女隊の訓練とは異なり、軍は二ヵ月の給料を支給し、待遇は当時の一 般のサラリーマンよりもよかった。活動が終わると、十日の休暇があり、台北で遊ぶこと ができ、これは当時の容易に台湾本島に行くことのできない女性にとっては、また一種の 特権だった。多くの成績良好な隊員は、軍の奨励の下「女青年工作大隊」 「政戦隊」等の 、 軍職に出願して、さらに保障のある仕事を手に入れることができた。このため、これは軍 事教化の一方的な過程というよりは、特殊な歴史が生み出した多方向的で複雑な社会集団 の同一化過程だった。 1958 年の『正気中華日報』の文芸欄に、 「無尽年華:一個婦女隊員的日記」という長編 連載の文章が載り、一人の若い女性が婦女隊の訓練を受けた心理的過程を表していた。33こ の呉華という金門の少女は次のように述べている。中学校を卒業後家で農作業を手伝い、 小さい時から村のお姉さんたちが婦女隊に参加しているのを見て、憧れを抱いていた。16 歳になり法定年齢に達すると、彼女は婦女隊に加入して学習と訓練を受け、女性の独立自 主と愛国敬軍の重要性を認識した。彼女はまじめに参加したが、かえって父親から叱責さ れた。 「十七八の娘が兵隊と一緒にいるなど、とんでもないことだ。しかも我が家には大き な子供は一人しかいないのに、家の仕事は誰が手伝うというのか?」34しかし既に“現代” 女性の意識を備えていた彼女は、婦女隊の各種の活動に参加して伝統的な束縛から脱し、 父親にひどく殴られてもその意志を変えなかった。その結果彼女の成績は良好だったため に婦女隊の幹事に選ばれた。物語の最後は、彼女は従軍して国に報いることを決め、女青 年工作大隊に出願し、ついに父親を感動させ許しを得るというものだった。日記の中のヒ ロインは、最後は“忠孝両全”を手に入れた。これは軍が公開した(あるいは虚構の)文 章であり、さらなる分析の価値がある。一つは、これは意外にも一つの事実――地方社会 は女性が民間防衛訓練に参加することに反対しており、愛国主義によって人民を教化して、 呉華「無尽年華:一個婦女隊員的日記」 (一~十六)『正気中華日報』 、 、1958 年 8 月 31 日から 9 月 21 日第四版。 34 呉華「無尽年華:一個婦女隊員的日記」 (三)『正気中華日報』 、 、1958 年 9 月 5 日第四版。 16 33 彼らに国家の政策を支持するように転化したにすぎないということを暴いている。二つ目 は、婦女隊の訓練課程が一種の啓蒙的現代化の過程であったことを強調しており、自分を 高めることができ、社会軍事化の正当性を強化する口実になっている。三つ目に、物語を 整理すると、軍事政権は血縁のある父親よりもさらに信用に値し、国家の家長式指導 (paternalistic leadership)を心に刻めばさらによい前途が開けることを暗示している。 つまり、軍事統治の権威主義的体制化では、地方社会はこれらの制度的な国家暴力に対 抗する策はほとんどなかった。しかし性別政治の操作により女性は合法に軍事任務を拒否 し、 自主的な空間を守ることができ、 この部分はまさに男性には欠如していたものだった。 性別政治はまた、国家と地方社会の間の支配/反支配の競い合う場 contested space であ るが、長期にわたる訓練の集団記憶では、一部の婦女隊及び金馬自衛隊に参加した女性に は一種の特殊な社会集団としての意識と光栄感が形成された。この種の戦地女性の複雑な 抵抗、離散、順応、同一視の経験は、 “軍民同心”という国家の論理の下では隠されてしま うが、追究する価値のある部分である。 3.訓練と懲罰:女性の身体美学の議題の公共化 1950-60 年代、軍は“改良風俗”の名の下に女性の身体の装いに対する各種の規範及び 罰則を制定した。まず、1951 年 3 月全島の女子小中学生に「パーマ化粧を禁止する、今後 もし女子学生が規定に違反したら、各校の校長を管理不行き届きとして処分する」という 通令を出した。35同年5月に一般の社会の女性管理をさらに拡大させて以下の指示を出した。 「金門警察所は上級長官からの指示を受けた。金門地区は前線であり、一切は戦時の要求 に合わせなくてはならない。…女性のパーマを厳禁し、もし違反する者がいれば、警察が 一律に追及する。本島の女性界は自ら身を慎み、法をくぐろうとしないように。 36実際は 」 金門人は百年以上にわたる豊かな華僑送金経済の恩恵を受け、物質的な生活水準は閩南地 区ではトップクラスであり、海外の物質文化と広く接触していた。1949 年に戦地になって からは、民間の贅沢な風習をなくし、戦地の困難克服の精神を実践するという理由で、女 性の日常の装いは非法行為になり、国家の取締りと処罰を受けるようになった。 1961 年、軍は女性の髪型を改良しようとしたが、違反者は処罰するのではなく勧告を与 えるという形式に変え、 「司令官は本県の民俗を整え、女性の髪形を改良するために、金門 県委員会婦工組に全県の奇妙な髪型の女性を調査させ、もし頭髪が長すぎたり髪型が奇妙 な者がいれば、一律に登記して改正するように勧告する。 37として全面的に金門の女性の 」 髪形を調査して“改正”させようとした。これは国家が合法/非合法の区別を放棄して、 一種の正常/異常の二分法で女性の身体美学を取り扱い、さらに教化していくという改造 過程を実施していったことを表している。 国家、統治術と身体コンロトールの理論は、欧州の学者ルイ・アルチュセール(Louis Althusser)とミシェル・フーコー(Michel Foucault)が多くの啓発を提供している。簡単に 作者不明 「各校の女生徒に注意。 パーマ化粧を禁止する。 旗の昇降時は敬礼するように」 、 『正気中華日報』 、1951 年 3 月 20 日第四版。 36 作者不明「民間の華美な風紀を取り締まり。警察は会議によって女性のパーマを厳禁す ることを決定した」『正気中華日報』 、 、1951 年 5 月 26 日第四版。 37 作者不明「奇妙な髪型の女性には、改正を勧告する」 『正気中華日報』 、1961 年 3 月 13 日第四版。 17 35 言うと、前者は国家の機械生産的意識形態は一種の内在化された注目であり、身体に対す るコントロール(body-snatching)と召喚(interpellation)を借りて、統治階級の利益に迎合 し、さらに個人を特定の主体にさせると指摘している。38後者はさらに一歩進んで権力に注 目する観念を広げて、 ジェレミー ベンサムが設計した ・ “全景を広く見通す” (the_panoption) 監獄を分析し、国家の統治術(governmentality)の運用――普遍化、規範化、論理化された 教化権力技術の体現であり、ここでは教化と懲罰は論理化された暴力の抑圧メカニズムで あるのみならず、さらに相当に複雑な社会機能を備えていることを暴いた。この種の統治 術は監獄で用いられるのみならず、工場、学校、軍営、病院、スラム等を含む社会の各方 面に拡大されている。39 これらの理論概念を引用すると、我々は軍事現代化の過程で、国家がややもすれば贅沢 をやめ、風俗を改良するという“進歩”の理論で女性の身体を凝視し、また規範を制定し てこれを改造してきたことに気づくだろう。この種の統治術の確立は、一方では地方社会 を軍隊と同じと見なし、固体の差異を消して国家に支配される全体を構築しようとしてい たのであり、女性の身体美学は伝統的な私的領域から公共の議題へと変化し、また教化と 懲罰の二重のモデルで、国家が到る所に存在するというミクロ権力(micro-power)を展開 した。もう一方では外在の注目を個人の内在的な自己監視に転化させ、戦地社会の日常生 活に適合する枠組みを築き、また懲罰を利用して女性に自発的に規則を遵守させた。この ため身体の教化自身は目的ではなく、国家の意図は権威に服従する意識形態の教化を築き、 その統治の有効性を遂行することにある。女性の身体美学の議題の公共化は、国家権力が 日常生活の領域に介入するもう一つの例証でもあった。 しかし、この種の個人の身体に関係するミクロ的なコントロールは長期間執行すること はできない。1950-60 年代と比べて、1970 年代の金門の世帯所得は安定した軍人消費の市 場経済のもとに成長し、軍事的に対峙する緊張した雰囲気もまた次第に減少してきて、社 会のムードも相対的に開放的になり、前述の身体美学の教化はだんだんと貫徹することが できなくなり、婦女隊の訓練期間のみになった。新聞上の広告には女性消費者のための毛 染剤や美容院の広告が載るようになり、我々は市場経済が国家の政策を緩め、ついにこれ に放棄を迫る過程を見ることができる。女性はその身体的自主権を回復する自由を得て、 美しい外観の追求はもはや非道徳なことでもでも、ましてや非法なことでもなくなった。 人心を慰め、欲情の対象となる柔美な女性 ( women sexual objects) 1.戦地社会の人口の性別構造及びその課題 as consolatory and 1956 年、金門が戦地になってから最初の人口調査が行われ、その後5年ごとに一回行わ れ、統計は烏坵郷――福建省の莆田の外海の大坵及び小坵の二つ小島に位置する――まで もカバーしていた。1966 年から人口数と性別の割合の外に、職業、兵役年齢の男女、学齢 Althusser, Louis, Lenin and Philosophy. Trans. Ben Brewster. London: New Left Books, 1971, p.62. 39 Foucault, Michel, Discipline and Punish: the Birth of the Prison. Trans. Alan Sheridan. New York: Vintage Books, 1979, p.34, 195-230. 18 38 児童、華僑及び華僑家族の人数調査も行われるようになった。人口統計から見ると、1966 年以降はゆっくりと増加し、五万六千八百四十二人から、1972 年には六万一千九百七十六 人に増加してピークを迎えた。その後、また青年学生の就学、農村の余剰労働力の就業等 で、人口の台湾本島への流出現象が現れた。1992 年の戦地政務解除の前夜には、金門の人 口は 1956 年の総数には及ばず、社会発展の停滞が顕著になった。 (表2) 表2:1956-1992 年の金門の居住人口及び性別比率(五年ごと) 年度 合計 1956 1961 1966 1971 1976 1981 1986 1991 1992 45,234 47,528 56,842 61,305 58,743 50,248 47,779 43,442 44,170 印、2002。 現住人口 男(比率%) 女(比率%) 兵役年齢 男子 8,593 8,643 8,822 8,717 11,688 12,112 11,482 11,238 11,708 兵役年齢 女子 5,064 5,140 5,791 5,807 8,899 7,357 8,110 5,362 7,130 9,210 8,572 11,502 13,335 16,272 13,034 10,555 10,189 10,004 学齢児童 (16 歳以上) (16 歳以上) 22,495(49.73) 22,739(50.27) 24,248(51.02) 23,280(48.98) 28,754(50.59) 28,088(49.41) 30,794(50.23) 30,511(49.77) 30,141(51.31) 28,602(48.69) 26,047(51.84) 24,201(48.16) 24,656(51.60) 23,123(48.40) 22,506(51.81) 20,936(48.19) 22,991(52.05) 21,179(47.95) 資料ソース:金門県政府主計室『中華民国九十一年金門県統計年報第四十九期』 、金門:編者自 数字から見ると、金門の性別比率は一般の台湾本島の非都会地区と顕著な差異はない。 しかし、常駐する軍人の数を加えると、性別比率の不均衡問題がはっきりと現れる。1950 年を例にすると、当時金門の兵力配置は 22 兵団司令李良栄部隊が主力で、金東、金西、烈 嶼の三つの防区に分かれ、 「陸軍は約八万人余り、海軍艦艇は九艘、空軍飛行機のべ二百機 余り」40というものだった。8万の部隊を住民の人数に加えると、男性比率は総定住人口の 8割を超える。 米国の国立公文書館には 1954 年の中央情報局(Central Intelligence Agency)の金門、馬祖 に関する檔案があり、当時国民政府の軍隊は 42,100 人、ゲリラ部隊は 6,000 だったことが 記載されている。41これは現在までに公開されている資料の中で軍隊の人数を最も正確に記 録しているものである。これによって計算すると、男性が総定住人口の 75.64%を占めてい る。1965-80 年代は依然として 4 個の守備師団(4-6 万人以上) 個の本部予備隊の増強 、1 師団(約 2-4 万人)が配置されえおり、人数は推定 6-10 万人以上もいた。つまり、1980 年代以前、軍隊を入れた金門の総定住人口の男性比率は 75%前後だった。42 40 41 金門県政府『金門県志』続修、215 頁。 CIA, The Chinese Offshore Islands, 8 Sept. 1954, p.3.(CIA-RDP80R01443R000300050008-7, National Archives , USA) 42 1980 年代中期以降、 金門の駐屯軍は金東、 金西、 南雄、 烈嶼等の師団編成を維持したが、 19 さらに 15 歳以上の男女の人数を既婚女性を除いて計算すると、結婚適齢期の性別比率は さらにかけ離れていた。1966 年を例にすると、15 歳以上の総人口は 27,109 で、そのうち未 婚男性は 3,728 人、未婚女性は 1,688 人、既婚男性は 8,651 人、既婚女性は 9,353 人だった。 43 当時の 8 万の国軍を加えると、49.6 人の男性に対して婚姻対象となりうる女性は 1 人しか いなかった。1955 年からは「交替制度」44が実施され、外島及び防衛部隊への駐留は二年間 で本島と一回交替するようになったが、閉鎖的な前線の島では、このようなアンバランス な性別比率が生む緊張関係、及び武力を持った軍人が庶民の集落に入ってくるというのは45、 確かに潜在的な不安要素をもった社会課題だった。 まず、戦地政務時期にはいくつもの重大な軍紀問題がおき、死傷者も出た。例えば 1953 年には部隊指導員の長期の圧迫を受けた炊事兵銭金山が逃亡し、呉厝村の著名な金門の画 家李家錫の家に逃げ込み、包囲して捕らえる過程で李氏の祖母と姉が殺害され、当該炊事 兵も拳銃自殺した。事件後軍は賠償の責任を十分に果たさず、当地では「呉厝事件」と呼 ばれた。また、軍人の間で当地の女性をめぐって妬み合い、男女問題で殺人事件に発展し た例もある。46この外に、軍人のセクシャルハラスメント、少女や女性をレイプする事件も 時々起こり、大多数の情報は封鎖されたが、地方社会の口頭の情報伝達は広く早く、金門 女性の軍人に対する恐怖心をうんだ。47大量の血気盛んな若い軍人が閉鎖された島に長期に 駐留すると、性(sexuality)は必ず直面しなければならない社会課題だったことがわかる。 また、徴兵軍人と地方の女性の感情的な揉め事も時々聞こえたが、初期の軍民雑居と戦 地の閉鎖化は問題をさらに重大にした。金門で最もよく聞かれた噂話のバージョンは次の ようなものだった。金門で服役していた台湾籍の徴兵軍人と金門の女性が交際するが、あ る者は出身について嘘を言い、退役して台湾に戻ると全く連絡がなくなってしまった。ま たある兵士は自分の家庭は非常に裕福だと嘘をつき、金門の女性に裕福な家庭に嫁げると 誤解させたが、台湾本島に行ってはじめて全く違ったことに気づいた。この種の結婚詐欺 のような経験により、金門の家長たちは、騙されないように絶対に徴兵役軍人に嫁がない よう家族の女性を戒めた。この他に、軍人が当地の女性の「美人局」に引っかかって、賠 償金を払ってようやく逃れることができたという例もあった。軍人の間でも「金門の女性 を妻にすると当地に十年留まって兵役につかなくてはならない」という実際には存在しな い規定が噂で広められ、感情的な揉め事の発生を脅かして防いだ。 しかし、歪んだ性別構造は金門の女性に婚姻関係での選択権を増やし、1980 年代以前は 人数は 55,000 人前後だった。駐屯軍の数は 1997 年に李登輝総統が国軍の「精実案」を進め てから大幅に縮小され、わずか 25,000 人になった。2007 年 11 月、金門は旅団単位を取り 消し、兵力は1万人に削減された。 (許紹軒「金門駐屯軍、最大時には十七万人に達する」 、 『自由時報』 、2009 年 6 月 3 日第二版) 43 Szonyi, Ibid., p162. 44 『金門県志』続修、217-218 頁。交代制度の表向きの理由は、 「部隊作戦、訓練、労働と 休息のバランスをとり、士気を高め、戦力を増強する」というものだったが、実際は国軍 の派閥化、地方化を避けるためだった。 45 1949-1958 年に、一部の国軍は金門各集落の民間住宅に散居していた。その後兵舎が大規 模に建設され、駐屯軍はようやく移転した。 46 呂静怡、前掲文、56 頁。 47 周妙真、前掲文、84 頁。 20 多くの女性が志願役士官に嫁ぎ、個人及び家庭経済を改善させた。これらの金門に常駐す る職業軍人は、 中国大陸から撤退して台湾を防衛し、 前線に派遣されてきているのだった。 彼らは安定した収入があり、部隊にしたがって交替する必要のない者もおり、これは経済 的保障を求めていた女性にとっては非常によい結婚対象だった。 「部隊で食事を管理してい る士官長に嫁いだほうが、中隊長や大隊長に嫁ぐよりもずっといい」と考える女性さえい た。 48 その原因は、これらの家族は新鮮な米、麺や肉類を食べることができ、夫が第一線 に出て戦うリスクもなかったからである。職業軍人と当地の青年との競争も相当に激しか った。49この外に、1949 年以降「三八」結婚制度が普及した。男性は必ず「八」両の黄金、 「八」百斤の豚肉、 「八」千元の現金を結納とする風習であり、経済的に弱い当地の青年は 結婚したくてもできず、彼らの配偶者選びの困難さを反映していた。50 一方、 勤務の負担が大きく、 休暇が少なく、 親族に会うために台湾に帰ることができず51、 娯楽も乏しく、性的に抑圧された(sexual repression)軍隊の生活は、軍隊内部の秩序の崩壊 や軍隊と民間の関係を緊張させる導火線となった。軍は 1959 年に成功陳景蘭洋楼及び金湯 公園に「将兵レジャーセンター」をつくり、成績優秀な将兵に「栄誉の休暇」を与え、こ こで十日間の「休暇」を過ごさせた。しかしこの種の軍が提供する標準化され、模範的な レジャーセンターは軍隊の監視からは全く離れておらず、さらにレジャーの雰囲気も欠如 しており、ここでの「レジャー」は少しも休まるものではなかった。このため、多数の軍 人に国家が認めた娯楽を提供し、長期的な緊張による心身のストレスを解消し、さらには 彼らの性抑圧問題を解決することは避けては通れない課題だった。 引き続き、我々は軍が提供した慰問活動及び特約茶室について討論し、レジャー娯楽に おける性別政治の運用を分析する。 2.人心を慰めるレジャー娯楽:慰問活動 慰問活動は軍では最もよく見られるレジャー娯楽であり、当時の軍人にとっては食事に 料理を加えることができるだけでなく、パフォーマンスを見ることもできた。慰問活動は 一種のお祭りだった。 活動の性質によって、慰問は慰労とパフォーマンスに分けることができる。前者は主に 婦聯会や各地の関係団体、海外の華僑団体、民間組織などの慰労活動であり、部隊に民生 物資を慰労品として送ったり料理のための資金を送ったりした。また軍の動員のもとに、 金門の女性界や学生の代表が負傷兵を慰問する活動も行われた。後者は主に「中華民国軍 人之友社」 (軍友社)52が管轄する文康工作隊(文工隊) 、軍の政戦体系の「国軍戦闘文芸工 陳金枝(1954 年生まれ)へのインタビュー、後浦珠浦北路許宅、2008 年 7 月 13 日。 Szonyi, Ibid., p.163. 50 魏光森「金門「三八」婚姻制」『正気中華日報』 、 、1962 年 3 月 8 日第四版。もちろん地方 の風習を貶すことは、社会改革の正当性を獲得することに役立つ。そのため軍の「三八制」 結納金の風習には政治的な目的があった。 51 1980 年以前は、転属以外は前線の兵士は服役期間中台湾に帰ることはできなかった。 1980-90 年代は、二年間の服役期間中に一回十日の休暇のみを許した。金門の非軍用電話も 国防の安全を理由に 1991 年になってようやく開放された。前線の兵士は郵便局の書簡で家 族と連絡するほかはなかった。 52 中華民国軍人之友社は 1951 年 10 月 31 日に設立された。社会民衆団体という名目だった 49 48 21 作隊」 (芸工隊)53、国防部の女青年工作大隊によって各地の劇団や芸能スターを招待し、 部隊で催し物を行いレジャー娯楽とした。1976年7月、金門戦地政務委員会は金門文化工作 隊を設立し、慰問パフォーマンスを担当させた。規模が比較的に大きい慰問は、普通は慰 労とパフォーマンスを両方兼ねていた。 1950年代は戦況が緊張しており、慰問活動の娯楽要素は低かった。1951年3月1日、京劇 の名優顧正秋と張正芬が台湾省の各界の春節前線慰問団とともに金門で上演し、また金門 中学の蒋介石記念堂竣工のテープカットの来賓となった。当時の新聞の写真からみると、 これは演芸会という名目の活動であり、整列した軍人は銃を担いでおり、整然と地面に座 っており、前方の舞台は簡単な木造で、士官は前のほうで鑑賞し、女性の出演者はマイク 設備もない環境でパフォーマンスしていた。 (図20、21)この種の大型の慰問活動は、レジ ャー娯楽の効果に欠け、かえって戦争時期の困難な環境と厳粛な雰囲気を再現した。 図 20(左) :1951 年の春節慰問演芸会( 『正気中華日報』 、1951 年 3 月 1 日第四版) 図 21(右) :名優顧正秋の上演( 『正気中華日報』 、1951 年 3 月 1 日第四版) 1960 年代以降は文工隊や政戦芸工隊或いは中国国民党各支部付属の文化工作隊によって 行われる慰問活動の一部は、次第に生き生きとし、リラックスしてきた。これらの慰問を 担当する団体は女性を募集して訓練し、中には金門の女性の応募もあった。彼女たちは歌 って踊って楽しい雰囲気を作るだけではなく、団体活動を主催し軍人たちと交流した。軍 の新聞も写真と文章で彼女たちの活動の芸能と甘い外観を報道し、体にぴったりとした旗 袍の写真すらあった。 (図 22、23、24)また一部の香港映画のスターやミス中国優勝者が金 門に慰問に来て、軍人たちの歓迎を受けた。54間違いなく、この種の文字や映像による再現 が、実際は当時国防部総政治部主任を務めた蒋経国の呼びかけに呼応して発足した準政府 組織だった。 53 1965 年から、国軍は「国軍新文芸運動輔導委員会」を設立し、学者を招いて政策研究と 創作の指導を担当させた。1968 年 5 月にはさらに「国軍文芸戦闘工作隊」を設立し、その 趣旨は国軍の精神戦力を養うこととされた。 54 作者不明「香港スター崔萍昨日金門に到着して軍を慰問、今回は三日間の公演を行う」 、 『正気中華日報』 、1960 年 1 月 10 日第一版。作者不明「香港映画スター柳声さん昨日金門 22 方式は女性の身体を物質化している。当局は意図的に「軍の恋人」のイメージを作り出し、 暗示による性の幻想を通じて男性軍人の抑圧された欲望を和らげ、満足させ、戦地社会の 安定を維持しようとした。 図 22(左) :金城政戦芸工隊と兵士のダンス( 『正気中華日報』 、1968 年 1 月 27 日第二版) 図 23(中) :金城政戦隊―「烈嶼三鳳」『正気中華日報』 ( 、1972 年 2 月 2 日第二版) 図 24(右) :国民党公路支部第三文化工作隊の大胆島での慰問( 『正気中華日報』1965 年 9 月 19 日第二版) 金門の女性も慰問の責任を負わされた。初期は婦聯界、軍友社等が各学校の女性職員や 村の代表を動員して異なったルートに分配して島を周って慰問した。また、各村の女性も 民防婦女隊の動員で慰問活動に参加した。55これらの女性に強制された義務は、軍事現代化 が決して現代的な意味を持った女性解放運動ではなかったことをまさに示している。 1970 年代から、台湾にテレビや映画が普及すると、一部の著名なスターたちが団体で金 門に来てパフォーマンスをして軍人や民人を慰問するようになり、なかでも女性のスター 56 はとりわけ人気があった。 しかも、 それぞれの時代に一世を風靡した林青霞 (ブリジット・ リン) 、崔苔青、白嘉莉、鳳飛飛、鄧麗君(テレサ・テン)等が慰問に訪れた。彼女たちは パフォーマンスの他に親身になって前線の軍人や民間人と交流し、サインをし、一緒に写 真をとった。 (図 24、25)芸能人の慰問公演は、情報が少なかった当時の前線の軍人や民間 人に流行の娯楽文化をももたらし、一時的でお祭りのような楽しい時間を作り出した。 に到着して軍を慰問」『正気中華日報』1960 年 3 月 17 日第一版。作者不明「三人のミス中 、 国昨日金門を訪問、各地で歓迎を受ける」『正気中華日報』 、 、1961 年 5 月 22 日第一版。 55 作者不明「婦女隊が五つの隊を組織して、定期的に島を回って慰問」 『正気中華日報』 、 、 1950 年 3 月 29 日第四版。 作者不明 「軍友社が昨日金城、 金山の女性を動員して烈嶼で慰問」 、 『正気中華日報』 、1957 年 4 月 17 日第四版。 56 作者不明、 「スターの慰問エピソード」『正気中華日報』 、 、1971 年 1 月 17 日第二版。作者 不明「中国電視と台湾電視の芸能人が金門到着、軍と民間を慰問」『正気中華日報』 、 、1974 年 1 月 31 日第二版。作者不明「銀色の隊列、きらめく星、軽やかな歌と踊り、三軍を楽し ませる」『正気中華日報』 、 、1974 年 7 月 16 日第二版。 23 図 24(左) :慰問のために歌う陳今佩( 『正気中華日報』 、1971 年 1 月 17 日第二版) 図 25(右) :軍人のためにサインする女性スター( 『正気中華日報』 、1974 年 7 月 16 日第二 版) 鄧麗君の慰問活動は、戦地時期の慰問パフォーマンスの代表的なものだった。甘い外見 と完璧な歌唱力を持つ彼女は 1981 年に金門に招かれ、軍慰問番組「君在前哨」を収録し、 中国大陸が管轄する角嶼から 2,100 メートしか離れていない「馬山呼びかけステーション」 から大陸の沿海住民に向かって放送を流した。彼女の写真も空を漂う宣伝弾にされて中国 大陸へ送られた。 (図 26)当時彼女は台湾、香港、日本、東南アジアなど各地で大勢のファ ンを獲得し人気絶頂だったが、何度も彼女が「自由な祖国の第一前線」と呼んだ金門に自 らやって来て慰問をし、軍人と民間人に深い印象を残し、愛国芸人及び「永遠の軍の恋人」 という栄誉を手に入れた。鄧麗君の婉曲で人の心を打つメロディーと歌声は、金門の放送 を通じて中国大陸にも伝えられ、同様に改革解放初期の中国の庶民の心を捉えた。中国の 民間には「昼間は老鄧(鄧小平)を聞き、夜は小鄧(鄧麗君)を聞く」という言い回しが あり、鄧麗君の人気の程をよく伝えている。鄧麗君の愛国的な情熱は彼女を「敬軍愛国」 の代弁者にした。柔美な女性のイメージは、まさに 1980 年代の海峡両岸の民間社会が必要 としていたものであり、文化大革命で傷ついた中国、戦争の脅威にさらされた金門、社会 変革と再構築の過程にあった台湾の庶民の心を慰めた。 24 図 26:中国大陸を漂う宣伝弾になった鄧麗君の写真(翁沂杰提供) 3.コントロールされた性的歓楽(controlled sexual pleasure)“特約茶室”の出現 : 戦地の性別政治で最も論争を引き起こすのは「特約茶室」の設立である(または「軍楽 園」或いは「八三一」57とも言われる。以下では特約茶室の名称を用いる) 。軍は将兵への レジャー娯楽の提供と地方の善良な風俗の維持という二つの関連のない理由により、軍経 営の妓楼を相次いで開設した。これらの多くの社会機能を備えた国家理論の背後には、実 際には軍人の性抑圧とそれに伴い軍紀が乱れ地方女性への強姦が発生することを避けると 課題に対応するものだった。特約茶室の存在は、一方では軍人の情欲(sexuality)に関わる 性別政治の実践であり、もう一方では戦地社会に特殊な役割をもった外来女性の一群―― 性事業に従事する従業員をもたらした。 1951 年 10 月 16 日金門の金城に「仁武特約茶室」がオープンし、金防部政五組によって 管理され、憲兵が派遣され秩序が維持された。 (図 27)1954 年から金門本島の庵前、成功 (陳坑) 、小徑、山外、沙美(当初は東蕭に開設)及び烈嶼の青岐、後宅、東林等に特別 茶室が続々と開設され、また安歧の移動茶室及び外島(大胆)の巡回サービスステーショ ンも開設された。 (図 28、29)なかでも金城が総本部であり、庵前は将校専門だった。 開始した当初は茶室は軍が主導し、 法的な根拠もなかった。 しかし制度ができておらず、 責任者と経営者の権力が大きかったため、ただでの飲食、売春や経費の水増し、濫用、帳 簿の不実記載等の問題が常に発生した。581960 年に「台湾省各県市娼妓管理辦法」が公布さ れてから、1968 年になってようやく軍はこの法律に基づいて「特約茶室管理規則」を制定 し、請け負い商人と軍関係者の癒着と権力濫用が断ち切られた。59 図 27(左)「軍楽団」開設のニュース( : 『正気中華日報』 、1951 年 10 月 16 日第四版) 図 28(右) :庵前の特約茶室(金門県政府、 「胡璉将軍珍蔵文物」 、写真類:編集番号 E074、 未出版) 「八三一」 は仁武特約茶室の電話が 831 だったためにつけられた名前だと言われている。 陳長慶『時光已走遠』 、金門:金門県文化局、2005、122 頁。 59 「特約茶室の等級を区切り、職員の編成を整理し、管理職の役職名を修正し、管理職の 資質を向上させ、厳格に試験を行い、冗員をリストラし、幹部が職権を利用してただで飲 食、売春したり、職員従業員が賭博をしたり、会を開いたり、金の貸し借りをする等の不 法行為を厳禁する。違反すれば、職員は解雇し、従業員は台湾へ送り返す」等の規定があ った。 (金防部「特約茶室管理規則」 (75)才幹字第一三九一号函、民国 75 年 9 月 30 日。) 58 57 25 図 29:金門の特約茶室分布図 特約茶室は甲乙丙の三クラスに分かれており、組織編制に基づくと、金門には毎年少なく ても 120 人の従業員がいたと推計される。60従業員は台北の募集ステーションによって募集 され、自発的に応募した者で、18 から 30 歳まで、未婚で家庭の揉め事がなく、身体が健康 で犯罪歴がないなどの条件に符合しなくてはならなかった。61軍は多数の従業員管理規則を 制定し、定期的に健康検査を受けること、外部宿泊、賭博、泥酔の厳禁、私用電話の開設 の禁止、将兵や公務員、民間人と私的に会ったり金銭の揉め事を起こすことの厳禁、軍事 機密を尋ねたり、公務や軍事情報を聞くことの厳禁、初めて金門に来た場合は半年経って からでないと休暇を申請することができないなどの規則があった。審査基準は厳格で、な かでも毎月のチケット売り上げが 300 枚以下が3ヵ月連続したものは台湾に送り返された。 経費面では、70%が従業員、30%が請け負い商人のものとなり、食事や宿泊場所は請け負 い商人が提供する。62軍事以外は、一般の民間人は特約茶室には入ることができなかった。 茶室はまた軍人の階級によって佐官級、尉官級、士官兵の三種に分かれ、チケットの値段 も異なっていた。 1971 年には家族のいない公務員も庵前の茶室に入ることができるになり、 「生活を調整し地方の善良な風俗を維持する」とされた。63 特約茶室の多くは町や集落の傍らに位置したが、軍は極力両者を隔離しようとした。従 業員は医師の診察を受ける以外は普通自由に外出することはできなかった。日用品が不足 すると、茶室の雑用係や洗濯女性に代わりに買いに行かせ、新年の休暇にようやく何組か に分かれて外出し廟に参拝したり町で新しい衣装や化粧品等を買うことができた。普段は 住民との接触は非常に少なかった。このように控えめであっても、彼女たちはやはり保守 的な民衆の非難は免れなかった。 特約茶室は三つのクラスに分かれていた。 「(a)甲級:凡そ収容人数及び現在の従業員が二 十人以上のものは管理員一人、雑用係(含む炊事)二から三人とする。例えば金城、山外 は甲級茶室とする。(b)乙級:凡そ収容人数及び現在の従業員が十五人以上のものは管理員 一人、雑用係(含む炊事)二人とする。例えば庵前、沙美、小徑、東林は乙級茶室とする。 (c)丙級:凡そ収容能力及び現在の従業員が六人以上のものは管理員一人、雑用係、炊事係 り各一人とする。例えば成功、后宅、青歧は丙級茶室とする。(金防部、 」 「特約茶室管理規 則」 (75)才幹字第一三九一号函、民国 75 年 9 月 30 日。) 61 陳長慶、 『時光已走遠』 、金門:金門県文化局、2005、162-164 頁。 62 金防部、 「特約茶室管理規則」 (75)才幹字第一三九一号函、民国 75 年 9 月 30 日。 63 金門県政府、 (60)造民字第五五八三号函、民国 60 年 4 月 12 日。 26 60 保守的な地方社会にとって、特約茶室の出現は矛盾と板ばさみの心理を作り出した。住 民は道徳的な観点から茶室は善良な風俗に違反していると考え(これは軍の設立主旨とは 正反対である) 、また多くの茶室が祀廟、学校等の神聖視されている空間の近くに建てられ ており(庵前特約茶室は孚済廟の付近、金城総室は朱子祠、キリスト教教会、中正国民小 学の後方) 、庶民の心理的な衝撃は非常に大きかった。これらの意見は 1990 年 11 月 30 日 に国防部が特約茶室を強制的に営業停止にした際に反映されたが、地方のオピニオンリー ダーと業者は存続を求めた。1991 年金門県諮問代表会の提案では「最近数ヵ月間に、金城 等の地区で数件の軍人による強姦事件が起き、すでに地域の家庭と個人を傷つけている。 」 「公共の安全秩序を確保し、善良な風俗を維持するために、特別に娼妓管理辦法を研究し て軍の楽園『八三一』に代えて女性の安全を保障するように政府に要請する。 64業者も金 」 門県政府に上申書を提出し、 「……長年民間の風俗が純朴で、社会が安定し、性犯罪の発生 が非常に少なかったのは、 『軍の茶室の存在』のおかげである。……茶室の廃止は金門地区 の未来に社会風紀の乱れや傷をもたらすのではないかと憂慮される。私たちは共同で資金 を募り、茶室の跡地で営業を行うことを願う……」 65とはっきりと述べている。そのため、 福建省政府66は特別に「福建省金門県管理娼妓辦法草案」を制定し、民間に妓楼の開設を許 し、 「妓楼を1戸から3戸開設する。1戸あたりは 20 人以内とし、大金の東西の半島には 各1戸、小金には 1 戸とする」とした。67そのため、1991 年初に公営の特約茶室は民間の妓 楼になり、一年近く続いたが、1991 年末に中央の法令に抵触していたため営業停止を迫ら れ、41 年の歴史に幕を閉じた。 営業の継続要求は、実際は商人が自身の利益を守るための口実だった。意図的に特約茶 室の役割を大きくして、それが一種の“必要悪” necessary evil)であると見なしたのであ (a る。特約茶室の存在によって女性の心身の恐怖感が完全に解消されたわけではなく、なか には比較的に流行の装いをしている女性が軍人に従業員と誤解され、思わぬ厄介ごとに巻 き込まれることもあった。同時に、特約茶室と善良な風俗の維持は全く関係がなく、その 存在がかえって地方の感覚を気まずいものにした。中正国民小学の校門付近にあった金城 茶室は、下校時間になると男子生徒が教師に隠れて、こっそりと椅子を運んで壁をよじ登 り、ヘルメットの軍人が茶室の部屋の外で並んでいたのを覗き見ていたというのは、みな の共通の回想であり、当時生徒同士の討論は一種の性教育の啓蒙のようであった。68庵前の 茶室は開浯の恩主陳淵を祀った孚済廟に隣接しており、毎年旧暦2月2日の祭神の誕生日 には一族の長老が営業を一日停止して祭祀に影響を与えないように要求していた。さらに、 庵前の茶室の敷地内には陳氏の祖先の墓があり、清明節以外は敷地内に入って墓参りする ことが許されなかった。69これらの状況は特約茶室と地方社会が常に一種の緊張、対立関係 64 65 金門県県政諮詢代表会、 (81)諮議字第三九三号、民国 80 年 10 月 20 日。 黄玉花等三人陳情書、民国 80 年(日付不詳) 、金門県警察局蔵。 66 1949 年以降、中華民国の体制内に福建省政府は存続し、金門、連江(馬祖)の二県を管 轄していた。 67 福建省政府「福建省金門県管理娼妓辦法草案」 、民国 80 年、金門県警察局蔵。 68 洪集輝(1975-1981 に中正国民小学に通う)へのインタビュー、2006 年 5 月 2 日、金門 技術学院。 69 陳国興(庵前村人)へのインタビュー、2006 年 5 月 8 日、福建省政府辦公室。 27 にあったことを示している。 従業員の社会経済的地位は相当に低く、流動率も高く、地方社会とは全く相容れず、搾 取され、無言な底辺の社会集団だった。彼女たちの生活環境は狭い特約茶室の中に限定さ れ、軍隊のような厳格に管理され、ひとたび業績が基準に満たなければ台湾に送り返され た。しかし彼女たちの仕事もまた愛国的な行動とみなされた。小徑の茶室の門には「男が 戦場で命をささげ、女も献身的に国に報る」という対聯があり、一種の対句(couplet)で彼 女たちの前線での役割を再現され、彼女たちの身体が軍人に提供されるのみならず、国家 全体に奉げられていることを意味した。 “愛国妓女”は一種の国家が彼女たちに与えたイメージだった。1957 年の「風塵侠女黄 秀琴」の報道はその一例である。ニュースは台北から来た当時 28 歳で貧困家庭出身で学歴 のない従業員を「責任感と勇気と比類ない機智で、憲兵がスパイXXを捕らえるのに協力 し、国家のために大功を立て、政府の賞金一千元を獲得し、千万の軍人民間人の尊敬を受 けた」と報道した。彼女は「現在の環境は自分が望んだものはなく、家庭の経済状況が改 善したらすぐに足を洗いたいと思っている。幸いに自由中国の台湾には餓死者は一人もい 70 ない。 我々は彼女の善良な本性と国家への楽観と信用をみることができる」 と報道された。 従業員の行為は、軍によって愛国には貴賎がないことの見本として宣伝された。実際、こ のような報道は珍しいものではなく、1959 年に台湾で発生した「八七水害」では、特約茶 室の職員と従業員が被災者救援に八千元を募金して表彰された。71 つまり、特約茶室は一種の性別政治の戦略と運用であった。それは軍と地方社会の間を 仲介し、合法的な性歓楽場所を提供した。しかしこの場所は思うままに放任された“軍の 楽園”ではなく、一種の厳格にコントロールされ管理された特殊な機構だった。従業員は 社会経済的な最底辺で、 国家のコントロールと削除を受け、 発言権と自己解釈権を持たず、 国家に与えられた愛国という単一のイメージを持つのみだった。しかし、特約茶室とその 従業員は確かに前線に存在しており、地方社会から受け入れられることはなかった。特約 茶室も国家や経営者が宣伝したような偉大な役割を持っておらず、戦地社会で最も隠され、 最も気まずい構造であった。 4.軍人消費経済における民間戦略:店の女性 大量の駐屯軍がもたらした民生消費は、戦地政務時期の金門の民間にとって最も重要な 経済的な出所だった。1950 年代後期から、金門ではいくつかの商業的に栄えた市街が出現 した。それらは金城の模範街、中興路、莒光路、新市、沙美、盤山、小徑、陽宅、埕下、 烈嶼の東林や西方などで、なかでも新市が最も典型的で、各種の飲食店、フルーツパーラ ー、特産店、文具・書店、映画館、写真館、理髪店、公共浴場等があり、軍人に“金門の 西門町”として知られていた。その他の伝統的な集落にも多様なサービスを行う雑貨店が 出現し、軍人に日常品を供給するほか、軽食店や軍服のクリーニング、郵便局の代行等の 機能を備えるものもあり、 ビリヤード場を付設しているものもあった。 1990 年代初期まで、 軍人の消費経済は十分に活発であり、経営内容も次第に多くなっていった。地方社会は一 夏裕民「風塵侠女黄秀琴」『正気中華日報』 、 、1957 年 1 月 21 日第二版。 作者不明「 「茶」と同情。特約茶室の職員と従業員、被災者救援に八千元を募金」『正気 、 中華日報』 、1959 年 8 月 17 日第二版。 71 70 28 種の依存経済(dependent economics)モデルを形成していた。 当初はこれらの商店の多くは家族経営だった。軍人の客をよぶために、店は競い合って 若くて美しい女性店員を雇った。しかし流行の装いをする女性店員は戦地社会が作ろうと している困難克服の精神に挑戦しており、軍は介入して管理しようとするようになった。 1951 年 10 月から、金門県政府は「パーラー」「ビリヤード」「飲食店」「茶室」「理髪」 、 、 、 、 、 「浴場」等を“特殊営業”とし、女性店員を雇うことを一律に禁止した。72 一方で、 “非特殊営業”はこの限りではなく、大々的に女性店員が募集され、 “華やかさ を競い合った” 73(図 30、31)これらの戦略は確かに経済的利益をもたらし、業績を上げ 。 た。軍人はこれらの女性店員にあだ名をつけ、例えば金城の「十二金釵」74 、 「郵票皇后」 、 「百貨皇后」 「福利皇后」 75、写真館の「七仙女」76 、新頭の花「小白菜」 77等、ひそかに 、 討論し広めていた。 しかし、軍が定義する“特殊業種”は決して性産業ではなく、せいぜい一般のレジャー 娯楽に過ぎない。女性店員の雇用の禁止は、実際はこれらの民間のレジャー娯楽産業を抑 制しようとしたものだった。性別政治の操作では、国家は、慰問活動や特約茶室のような、 その政治目的に合致した“正式”なレジャー娯楽のみを許し、民間が同様に女性の魅力で 商業宣伝することはできなかった。これらは国家が「性」を一種の“パンドラの箱” Pandora's box と見なし、一旦解放されれば予測不能な災難が起こり、必ず制限しなくては ならないと考えていたことを示している。 皮肉なことに、生存のために金門の“特殊産業”女性店員の雇用をやめずに、地下化し 78 たに過ぎなかった。 軍の取締りは時々行われたが、 彼女たちが消えることはなかった。 1970 年代以降、 “特殊産業”の制限は明文で取り消されたわけではなかったが、取り締まりはほ とんど行われなくなった。 “非特殊産業”は女性の魅力を十分利用して商業競争の手段とし た。軍人が休暇で街を歩く時、店の女性に話しかけるのは、祝祭日の慰問のパフォーマン スよりもずっと日常生活的なレジャー娯楽であり、苦しい軍隊生活を慰めた。この種の経 営モデルは女性を物質化または商品化しているきらいがあるが、確かに女性に多くの現地 での就業の機会を提供し、故郷を離れなくてもすんだ。同時に成功した例も少なくない。 彼女たちは店員から仕入れ、補充、簿記、管理、軍人の呼び込み等戦地の経営を学び、資 本を蓄積したり結婚した後に自分で創業し、雑貨店、特産店、飲食店等の小商店を経営し た。戦地社会の小商品経済の発展の過程で、女性は確かにキーとなる役割を担っていた。 作者不明「県政府、特殊営業では女性店員の雇用を禁止し、純朴な風紀を維持すること を決定」『正気中華日報』 、 、1961 年 10 月 9 日第四版。 73 薜翰勲「映画館は盛況、女性店員は艶やかさを競う」『正気中華日報』1962 年 1 月 26 、 日第四版。 74 謝白雲「闊別四月金城を見る」『正気中華日報』 、 、1962 年 12 月 5 日第四版。 75 作者不明「金城街頭」『正気中華日報』 、 、1962 年 3 月 28 日第四版。 76 作者不明「すみやかな進歩を要する金門の写真業」『正気中華日報』 、 、1962 年 8 月 19 日 第四版。 77 張振亜「金湖のエピソード」『正気中華日報』 、 、1962 年 3 月 6 日第四版。 78 作者不明「警察局、山外ビリヤード場の女性店員を取り締まり」『正気中華日報』 、 、1962 年 2 月 1 日第四版。作者不明「パーラーの女性店員を禁ずる、関係機関は厳格に執行する ように」『正気中華日報』 、 、1962 年 4 月 6 日第四版。作者不明「女性の親族は特殊営業の店 員をさせないように」『正気中華日報』 、 、1962 年 4 月 20 日第四版。 29 72 図 30(左) :餅菓子店の軍人の客と女性店員( 『正気中華日報』 、1964 年 9 月 20 日第四版) 図 31(右) :烈嶼の特産店の女性店員( 『金門日報』 、1971 年 9 月 7 日第二版) 結論:国家/軍人/地方社会の間を仲介する性別政治 戦地政務体制は高度に権威的で、 上から下への軍事統治だったが、 動員と教化の過程で、 地方政治は国家が直面しなくてはならない課題だった。 「管、教、養、衛」の四つの面で構 成される“軍事現代化” (military modernization)は、一般に戦地社会の地方政治の運営の 核心と考えられた。 本文の討論の焦点は、 「管、教、養、衛」の過程で、性別政治は一種の欠かすことのでき ない政策だったということである。つまり国家が社会の軍事化の過程でいかにして新たに “現代”的な性別関係(gender relations)を線引きし、異なる役割を女性に与え、当局のメ ディアを通してそのイメージを再現した。また地方社会及び女性個人も軍事化の過程で性 別と性に関する政策、女性の身体に関する論理をどのように見ていたのか、また彼女たち はどのようにして拒絶、順応して自主的な空間を見つけたのか、或いは複雑で多元的な同 一視経験を形成したのか、さらに戦地の歴史書では隠されてきた女性の役割を明らかにし た。 軍の新聞資料とフィールド調査の資料分析のもとで、我々は三つの主要な女性イメージ とその再現を指摘する。生産と再生産の役割での模範的な女性、軍事動員と身体的な教化 のもとの戦地女性、人身を慰め欲情の対象としての柔美な女性、これらはまさに上述の課 題に回答するために構築した分類カテゴリーだった。しかし強調しなくてはならないのは、 我々は決して金門の女性の役割を三つに簡略化するのではないし、一人の女性が一つの役 割しかなかったとも考えていないということだ。実際は、この三つの分類は国家が軍事現 代化の過程で与えた役割であり、多くの女性が同時にいくつもの異なった役割を演じてい た。以下では、我々はさらに進んで国家(軍)/軍事現代化/性別政治の間の運用を分析 し、戦地社会の地方政治政策を理解しよう。 1.生産及び再生産の領域では、軍事現代化は一般の現代化の論理とは異なり、戦地の女性 は家庭と国家の二重の責任を同時に負い、男女の不平等は一層深まった 軍事現代化の過程では、国家は男女平等を理由に、女性の職業的な技能を養成し、彼女 たちが生産及び再生産の現場に入ることを奨励した。この時、家事労働、農漁業生産或い は工業生産ラインの勤労女性は、一種の戦地経済の成果の象徴として再現され、さらに軍 事統治の正当性を強化した。そして宋美齢及び婦聯会が提唱した政治運動の一つに呼応し て、 「模範的な女性、模範的な母親」の選抜、さらに「敬軍愛国にして、夫を支え子を教え、 家事をよく行い、困難に打ち勝ち生産する」等の基準が“良妻賢母”のイメージを具体化 30 し、女性に“救国保種”の良好な公民になることを要求した。同時に、国家は女性に家族 の世話をするだけではなく、前線を守る軍人の世話をすることを求めた。 「縫製軍服」運動 はその一例である。 国民至上の論理では、男女平等の現代化概念は軍事現代化の口実に過ぎず、国家の真の 意図は女性の動員だった。家庭から出た戦地の女性は個人の自由のためではなく、さらに 大きなグループに服従していた。婦聯会の“模範的な”女性という理論は一種の父権的、 国民的な意識形態であり、彼女たちが女性が負担するように求めた“家”から“国”の生 産と再生産の役割は、実際は国家の政策を通して性別の差異とその職業分担を理解し、区 分する新しい経路を作ったのである。 2.軍事動員の過程で、国家は性別による分類を無意識に自然化し、女性に異なった軍事任 務を与えた。性別政治は国家が用いたのみならず、反対に女性が国家の政策に抵抗する策 略手段になった 軍事動員の過程では、国家の論理は矛盾に満ちており、一方では全民皆兵を宣伝し、一 方では無意識に性別による分類を自然化し、女性に異なった軍事任務を与え、既婚、未婚 の身分はその中の一つのキーポイントだった。そのため、早婚や養子を育てる等の家庭の 責任や月経等の身体的な要素は女性が国家の政策を回避する手段となり、さらに男性には ない自主的な空間を勝ち取った。性別政治の策略は、国家の手段だけではなく、地方社会 でも流用された。そして軍事訓練の経験は戦地の女性の集団的な記憶であり、複雑で多元 的な抵抗、離散、順応、同一視等の意識に発展した。 このほかに、国家は“風俗の改良”という現代化の論理で、正常/異常の分類で日常生 活の領域に介入し、 「性別の区別を取り除いた」或いは「中性化した」女性の身体美学を教 化、改造した。この時、女性の服飾、化粧、髪形等の外形はみな軍事統治の一環だった。 しかし、この種のミクロ的なコントロールは実行が難しく、1970 年代以降はもはや提起さ れなくなった。 3.性別構造のアンバランス及び軍人の性抑圧が引き起こす社会秩序の崩壊を避けるため に、 国家は慰問活動を提供してレジャー娯楽とし、 また特約茶室で性サービスを提供した。 民間もまた女性店員を軍人の消費をひきつける手段とした。これらの“コントロールされ た性歓楽”はみな柔美な女性の性的な想像と身体への搾取の上に築かれていた。 1949-1992 年の間に、大量の駐屯軍と住民が閉鎖された島に暮らし、性別構造のアンバ ランス及び軍人の性抑圧は社会問題をもたらした。国家は慰問活動を主とするレジャー娯 楽で、女性の柔らかさを人心を慰める道具とした。1980 年代の鄧麗君は、海峡の両岸が共 有する前線の歴史記憶にさえなった。 国家は善良な風俗の維持の名の下に、1951 年に特約茶室(軍楽園、八三一)という名の 軍のなかの妓楼を作り、軍人に性サービスを提供し、その性的抑圧を緩和しようとした。 1968 年から軍は特約茶室の管理を厳格化し、また地方社会の外に隔離した。しかし地方社 会では普遍的に特約茶室に対する一種の矛盾、ジレンマの見方を持っており、それが善良 な風俗に違反することを心配するとともに、それが担っている社会的な役割を認めざるを 得なかった。同時に、民間の商店は競って若くて美しい女性店員を雇い、軍人の消費を引 き付ける手段とし、国家に特殊産業と非特殊産業を分けざるを得なくさせた。そしてこれ らの“コントロールされた性的快楽”は、柔美な女性の性的な想像と身体の搾取の上に築 31 かれていた。 性別政治は「管、教、養、衛」等の面でキーとなるな役割を演じており、国家/軍人/ 地方社会の間を仲介し、統治政策と相互作用メカニズムになった。性別と性の議題は一種 の戦地社会の地方政治であり、異なった女性イメージと再現を借りてその目的を達成した。 しかし、性別関係から見ると、軍事現代化は決して真の男女平等という現代的な意味を持 っていたのではない。さらには、支配された一部の女性は性別の差異と身体的な特質の条 件を流用して国家の軍事動員と規範に抵抗し、自主的な空間を勝ち取った。 最後に我々はやはり、金門の伝統的な戦争史では女性はほとんど見られないということ を強調しなければならない。これは軍事化の女性に対する衝撃を過小評価しているのみな らず、女性の軍事計画における重要性を過小評価しているのである。この時期の女性史を 振り返ることは、金門の歴史を全面的に理解するだけではなく、グローバルな比較の視野 でもまた価値がある。我々はすでに金門がその他の地方と同様に、軍事の現代性が高度に 性別と関連しており、男性と女性の経験も相当に異なっていることを既に見てきた。軍事 の現代性は各自の性別の役割を強化したが、変化した部分もある。まさにキャサリン・ル ッツ(Catherine Lutz)の米国ノースカロライナ州フェイエットビル(Fayetteville, North Carolina) での研究が示しているように、 米国陸軍特殊部隊本部フォート ブラッグ ・ のメカニズムと実践を築いてきた。79 二十世紀のアジアの他の地方の女性と同じように、金門の女性は国家の目標のために犠 牲を求められてきた。さらに、自己犠牲を行った女性は常に国粋(the national essence)の 象徴とされてきた。金門で女性が軍人として動員され、国家の実質的な防衛を担当したの は極限的な形式である。多くの場合、女性の動員は女性解放の要とされたが、実際には女 性が兵士となることは決して父権体制を取り消すものではなく、社会の役割の再分配とい う傾向があった。軍事化がいかにして父権体制を再構築し、決してなくならなかったかを 示すもうひとつの例は軍における妓楼である。中華民国国軍は他の軍隊と同様に、男性の 性需要を満たすために女性をコントロールしなければならず、そうしてこそ軍事効率が下 がり軍と民間の関係が悪化するのを防げると信じていた。軍事化は女性をコントロールし なければならない新しい形式だった。 軍事の現代性における性別の処遇は往々にして同じではない。Seungsook Moon は再生産 者の役割において構築された支配的な性別意識形態―女性が演じているのは主に経済的な 役割であり、決して彼女たちが国家の一部ではないということから、韓国の公民がいかに して性別化されていったかを説明した。80これは金門と似ているところがあるが、異なって いるのは、金門の女性は経済的な役割は彼女たちの家事における役割と軍人への服務とと もに賞賛されるのであり、おそらく金門の反共闘争の宣伝の象徴という特殊な役割と関係 があるだろう。このため、軍事化、現代化と性別関係の関係は特殊な地方及び地縁政治の 脈絡で分析されなくてはならない。 Lutz, Catherine, Homefront: A Military City and the American Twentieth Century, Boston: Beacon Press, 2001. 80 Moon, Seungsook, Militarized Modernity and Gendered citizenship in South Korea, Durham: Duke University Press, 2005. 32 79 Ft Bragg とともに発展してきたこの都市は、戦場とは相当に離れはいるが、軍事化によって多く 本文は性別政治の実践課程の分析を通じて、戦地の歴史における国家と地方社会の相互 関係及びそれぞれの女性の実際の環境、社会効能と象徴としての意義についての更なる理 解を試みたものである。 参考文献 [論文、専門書] 川島真 2008 田立仁 2007 2009 江柏煒 2007 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